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== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/04 (金)  小倉百人一首 (難波潟)

難波なには がた みじかきあし の ふしの ま も  あ はでこの世を すぐしてよとや
(   )
難波潟に生い茂る芦
その中でもことに短い芦の
その節と節の間は
いっそう 短いわ
そんな短い逢瀬の機会さえ
あなたはつくってくれず
あたしにこのまま過ごせというの
これっきりだと あなたはいうの?

『新古今集』 巻十一・恋に 「題しらず 伊勢」 として出ているが、彼女の歌集 『伊勢集』 には、詞書に、 「秋のころうたて人の物言ひけるに」 とある。心変わりしたつれない恋人の手紙に対する返事である。
王朝の女流歌人で、恋に生き、歌に生きた人、というと、小野小町や和泉式部が先ず思い浮かぶが、この伊勢も、それらに劣らぬドラマチックな人生を生きた才媛であった。
ただ彼女の歌は、才気があるあまりに技巧的で、それが現代的嗜好からやや逸れ、小町や和泉式部のように受け入れられにくいところがある。
しかしこの 「難波潟」 の歌のように真情ほとばしって人の心を打つ、愛すべき歌もかなりある。彼女はもっと知られていい歌人だと思う。
難波の芦は、ここでは 「短い」 という言葉をひきおこすための修飾語だが、織田正吉氏のお説によると、今も淀川べりに生えている芦、丈の高いものは結構ふしも長くて、とても 「短い」 とはいえない、そこで長短さまざま、風に揺らいでいる芦のその短い芦の、その短いふしの間、という解釈をされており、尤もと思うので私もその説を採らせて頂く。
伊勢は九世紀末から十世紀初めにかけての人、伊勢守 (イセノカミ) だった藤原継蔭 (フジワラノツグカゲ) の娘で、そのゆかりで 「伊勢」 と呼ばれる。
はじめ、宇多天皇の中宮温子 (オンシ) に仕えていた。伊勢は美しく魅力的で、才たけ気立てもよかったので言い寄る男は多かったが、ことに熱心に求愛し、伊勢もまた愛したのが、若い青年武官だった藤原仲平 (ナカヒラ) だった。
娘の恋愛を知った父親は、身分が違いすぎると思った。仲平は時の権力者、元経 (モトツネ) の次男で、権門の貴公子である。こちらは一介の受領 (ズリョウ) (地方長官) の娘にすぎない。しかし娘を愛していた父親はため息をついて、こういっただけだった。
「若いものは、あてにならないよ」
父の予言の通りになった。次第に出世していった仲平は、大臣の娘と結婚し、伊勢を捨てた。
傷ついた伊勢は、お仕えする中宮のもとを離れ、人の噂のかまびすしい都も離れ、そのころ父が国主として赴任していた大和へ去っていった。そんな時でも、美しい伊勢には、仲平の兄の時平 (トキヒラ) や、色ごのみと都で評判の平中 (ヘイチュウ) などがうるさくつきまとうのだった。
しかし伊勢には、失った恋の辛さが忘れられなかったようである。 「難波潟」 の歌は、つれない男・仲平への切ない恨みだったのかもしれない。
やがて一年ほどして、中宮の温子から、また出仕してはどうかというお招きがあった。父も “宮仕えしたら気も晴れよう” というので、泣き暮らしていた伊勢も心をとり直して、人まじわりするようになった。
仲平は再び文をよこしてくるようになったが、伊勢はきっぱりと拒絶する。その頃から伊勢は歌人として名高くなっていて、歌合せの席や、また公的な晴れの屏風歌で名をあげ、 「躬恒 (ミツネ) ・貫之 (ツラユキ) にも劣らぬ」 と評判をとった。
そういう伊勢に心ひかれた人がいた。伊勢はその人を拒むことはできなかった。宇多天皇であった。お仕えする中宮温子に対しても心苦しいことだったが、天皇にはそむけない。しかし温子は人柄の暖かい寛容な女性だったらしく伊勢にやさしく、伊勢もまた変らぬ敬愛を、その後も中宮に捧げつづけている。 『伊勢集』 には、中宮温子のことを、 「后の宮の御心、かぎりなくなまめき給ふて、世にたとうべくもあらずいはしましける」 とある。
宇多天皇は遊び人で、たくさんの后があられたが、伊勢は寵愛されて行明 (ユキアキラ) 親王を生んだ。それで、 「伊勢の御 (ゴ) 」 とか 「伊勢の御息所 (ミヤスンドコロ) 」 と呼ばれるようになった。
しかし宇多天皇は譲位し、落飾 (ラクショク) される。 皇子も幼くして亡くなられた。伊勢が慕った中宮温子も薨じられた。 「舟ながしたるここち」 がしたと伊勢は悲しんでうたう。
憂いに沈む伊勢は美しく、男心を誘ったようである。今度は宇多院の第四皇子敦慶 (アツヨシ) 親王のプロポーズを受けた。親王は二十五、六歳、伊勢は三十を過ぎていた。
『今昔物語』 に、宇多院退位後、実家に下がった頃の伊勢の消息がある。醍醐帝の仰せで歌を作るようにと遣わされた使者の藤原伊衡 (コレヒラ) が、ほのかに伊勢の気配に接して、その気品とゆかしい魅力に、 “世の中にこんなすばらしい女人がいるものかと感じ入った” と書かれている。
伊勢は親王の子を生んだ。のちにこれも歌人と呼ばれた中務 (ナカツカサ) という娘である。
晩年は親王にも先立たれ、家を売った歌なども伝えられるが、伊勢の存在は王朝初期歌壇にかぐあわいい香りをとどめている。
「いやァ、こんな歌をもろうた男はどんな気がしますかねえ。僕らやったら、もうたまりまヘンな。生涯を棒に振っても、この女をえらびたい、思いますなあ」
熊八中年の感慨であった。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ