〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/04 (金)  小倉百人一首 (住之江の)

すみ え の 岸に寄る波 よるさへや 夢のかよ じ 人目よくらむ
(ふじ わらの とし ゆき そん )
住の江の 岸による波
その よるの夢路にさえ
きみは 人目を避けて
ぼくと 会ってはくれないのか
  昼は無論のこと 夜の夢にさえ
  きみは訪れてくれないじゃあないか

『古今集』 巻十二の恋の部に出ている。
住の江の岸は、大阪府住吉区の住吉大社のあたりの海岸で、歌枕であるが、ここでは 「よる」 を引き出すための序である。しかし全く意味のない言葉かというと、そうともいえず、夢うつつのまどろみに、ヒタヒタと寄せる波音は、恋しい人のかそけき足音とも聞きまがうようであり、夜の海の深沈は恋の恨みのふかい嘆きに通う。
何となくひびきあい、匂いあうイメージを愛すればよい。
調べがなだらかで美しいので、評判のいい歌で、この歌を好き、という人は多い。
作者の敏行は九世紀後半の人、清和 (セイワ) ・陽成 (ヨウゼイ) ・光孝 (コウコウ) ・宇多 (ウダ) ・醍醐 (ダイゴ) の五朝に仕え、寛平 (カンピョウ) 八年 (896) 右兵衛督 (ウヒョウエノカミ) となっている。皇居警備の長官である。延喜七年 (907) に亡くなったかといわれている。
父は陸奥出羽按察使 (ムツデワノアゼチ) 、富士麿 (フジマロ) で、母は紀名虎 (キノナトラ) の娘であるから、母方に、紀貫之・友則 (トモノリ) らの縁戚がある。敏行自身も歌人として有名で、三十六歌仙の一人に入っている。
紀有常 (キノアリツネ) の娘を妻にしたので、業平とは相婿 (アイムコ) になる。妻どうしが姉妹である。
この相婿はどちらも色好みという点では、ひけを取らなかったらしい。
敏行には有名な、

「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる」

という佳作があるが、時にユーモラスな戯れ歌もあって、人柄は人間的で愛すべき男だったようである。
彼は世に聞こえた能書家であった。
それゆえ、人々に頼まれて法華経をよく写経した。
ある日、にわかに死んで、ふと気付くと自分はきびしく搦めとられ、引き立てられてゆく。一体どうしたのだろうかとびっくりして、引き立てる使者に問うと、
「お前の写経についてのお裁きがあるのだ」
というではないか。見ると周りに、見るも怖しい猛々しい軍勢が目を怒らし、歯を噛み鳴らして彼をねめつけており、いまにもつかみかからんばかり、あれは何かと使者に尋ねると、使者は彼を哀れむ如く、
「わからないのか、あれはお前に写経を頼んだ人たちだ。彼らは本来ならその功徳で、極楽に生まれて幸せになるべきはずのところ、お前はその経を書くときに不浄の行いがあった。お前は写経しながら平気で魚を食い、女に触れただろう。思うことは女のことばかりだったろう。だから功徳も叶わず、この連中は極楽へ行けなくなって怒り狂っているのだ。お前を呼んでくれ、八つ裂きにしてこの怨みを晴らしたいと閻魔さまに訴えたので、お前はまだ定命 (ジョウミョウ) 尽きてはいないが召されたのだ。お裁きで罪が明らかになれば奴らに裂かれるぞ」
聞くやいなや、敏行はがたがた震えて、生きた心地もしない。確かに思い当てることがある。しかし後悔してももう遅い。閻魔の庁の門は近付く。敏行は足の地につかず、泣く泣く使者にとりすがり、
「おた、おた、おたすけ下さい、どうしたら助かりますか」
とむせび泣く。
使者はさすがに哀れに思ったのか、内緒でカンニングしてやった。
「金光明経 (コンコウミョウキョウ) 四巻を写経供養しますという願をかけろ」
敏行はすぐさま心中に発願して念じた。
閻魔の庁の前に引き据えられ、不浄写経をきびしく咎められ、恐ろしい軍勢の手に渡されようとしたとき、敏行はぶるぶる震えながら、必死に訴える。
「四巻の写経供養がまだできておりません、これをなしとげて罪をあがないたいと存じますが・・・・」
「なに?そんなことがあるのか。帳面にはついてないぞ」
閻魔大王の帳面には、その人間の一生でした善事・悪事がつけ落としなくついている。
敏行のはいいことは一つもなくてみなワルイことばっかりだったというからおかしい。
しまいにいちばん奥に写経供養発願という殊勝な善事がかかれてあった。何といっても、ついさっき発願したばかりだからである。
おかげで敏行は 「娑婆へ帰って願を遂げよ」 と許されたかと見る間に目がさめ、生き返って、妻子らは泣いて喜んだ。
「敏行は早速、精進潔斎 (ショウジンケッサイ) して写経供養したと思いますか」
と私は与太郎青年に聞く。与太郎はすぐ、
「いや、生き返ったら、こっちのもんです」
その通り。敏行も、生き返った当座は、心身清浄にして写経しようと決心していたが、生来の色好み、写経よりも女への懸想文 (ケソウブミ) のほうが忙しくて、女の心を動かすような歌を詠むのに頭を使っているうちについつい 「はかなく年月過ぎて」 しまった。そのうち定命も尽きて死に、あの世でエライ目にあったという話。
これは 『今昔』 や 『宇治拾遺』 に出ている。
「千年前の人の話と思えまへん。僕のことみたいです。二日酔いしたときは、もう酒やめや、と思いますが、なおると、またけろっと飲みにいきます」 と与太郎。
人間の性質は千年たっても変らぬものらしい。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ