〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/03 (木)  小倉百人一首 (ちはやぶる)

ちはやぶる かみ もきかず たつ  た がは  からくれなゐに 水くくるとは
(あり わらの なり ひら そん )
竜田川の水の面
まるで紅のしぼり染め
紅葉の錦の唐くれない
神世にもこんな美しさがあったとは
聞いたこともない
なんとみごとな美しさ

百人一首は定家が選んだ、ということは前にもいったが、その選歌基準というのがよくわからない。たとえば業平の歌は、ここに挙げたものより、もっといい歌がたくさんある。なぜこれを選んだのか。
しかし、これも前にいった織田正吉さんの説によるとパズルのくさりに必要だったという。
業平は、東国へ下って放浪している。在原一家は漂泊の宿命を担っていたとみえ、定家はそれゆえ、ほかの業平の名歌はおいて、紅葉が川に流れる歌を採って、さすらいを暗示したのであろう。
いったい、百人一首を定家が選ぶ機縁となったのは、その晩年近く、嵯峨の小倉山の山荘にいたとき、息子為家の妻の父である宇都宮入道に、
「広間の襖に貼りたいので色紙に和歌を書いてほしい」 と頼まれ、それに応じたもの、といわれている。
定家はその選歌にあたって、和歌のプロらしく、活殺自在に古今の名歌秀歌伝承歌から拉 (ラツ) し来たって百首を選んだが、その一首ごとの詩句の関連から、後鳥羽院と式子 (シキシ) 内新王への真情が示唆される効果を狙っているというのが織田さんの説である。
ところでこの歌は二条の后とよばれた清和帝皇后・高子 (タカイコ) の、屏風に竜田川の紅葉が流れている絵が描いてある、それに題して詠んだ歌という。
からくれない、というのがあるから、紅葉だろう、とはわかるが、国文の素養のない与太郎青年は、全く何の意味か分らないという。私も子供のころから、これは難解な歌であった。 「水くくるとは」 を 「水くぐる」 と解釈するといよいよ分らない。
「落語の “千早 (チハヤ) ふる” を聞いて疑問氷解!と思いましたが、あれはやっぱり、落語でしょうな」
と与太郎はいう。当たり前である。落語ではこの歌を物知りのご隠居が説明して、
「竜田川というのは相撲とりで、千早という遊女を口説いたが千早は隅田川をきらって振ってしまう。それで 。竜田川はこんどは千早の妹ぶんの に通いつめたが神代もいうことを聞かない。 神代もきかず竜田川、というのはこもこと。竜田川、がっくりきてしまい、とうとう相撲とりをやめて豆腐屋になった。十年ほどのち、店の前を通りかかた女乞食、おかわを恵んで下さいといい、竜田川も気の毒に思い、おからをやとうとして互いに見交わす顔と顔。これがうらみの千早だったというので竜田川はおからだってやるもんかと突き出して、これが 。千早は面目ないと店先の井戸へ飛び込んで死に、これが
「じゃあ、“とは” ってえのはなんのことです」 と聞かれて隠居は苦しまぎれに、
「とは、てえのはネ、よく調べてみたら、千早は源氏名で、とわが本名だった」
というもの。百人一首みなこうして解くと面白いだろうな。
「千早ぶる」 は神の枕詞で、 「水くくる」 は 「水潜 (クグ) る」 ではなく、くくり染、絞り染めのことである。
実際に見た景色を詠んだのではなく、屏風の絵からつくった歌であるから、技巧が目立ち、都会風にしゃれている。業平というのはもともと、歌の名人とされているけれど、 『古今集』 で、紀貫之に、
「その心あまりて、ことば足らず」
と、まことに的確な批判をされている。自分の詩情がほとばしり出るほどたっぷりあるのに、かえってそれに押されて言葉が出てこない、というタイプの歌人である。だから詩句の省略と飛躍が多く、解釈しにくい歌が多いが、その代わりひとたびなじむと、しっくりと心にしみついて、何度も何度も口ずさみたくなる名歌も多い。
この業平は美男の代表として伝承されているが、 『伊勢物語』 の 「むかし男」 は、業平を指すことになっている。
その 「むかし男」 が一世一代の恋をしたのは、さきの屏風の持ち主、二条の后、藤原高子だった。
これを学者先生の説では、歴史的事実ではないという人もあるけれど、九世紀に生きた美男歌人のロマンスを、日本人は長いこと愛してきたのだから、その伝承は伝承として、我々はいとしんで後代へまた、言い伝えたらいいと思う。で、与太郎に話して聞かせる。
藤原一族はその姫・高子を清和天皇の後宮に入れようと画策していた。しかしその前に、三十一、二の業平と、まだ十五、六の高子姫は恋し合っていた。裂かれれば裂かれるほど、恋人たちは燃え上がる。ついに業平は深窓の姫の高子を盗み出して背負って逃げてくる。野には一面の露がきらきらして、姫は、
「あらは何なの」 というのである。無邪気な姫である。
「それから、蔵のようなところへ姫を入れて追手を警戒して守っていると、鬼がお姫さんを食べてしまった。これが鬼ひとくちの話ですが、鬼というのは、追手の、姫の兄君たちょのことをいう、と、 『伊勢』 にはあります」
「やっぱり落語になりますなあ」 と与太郎。
「どうしてですか」
「だって、 いさんと・・・」

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ