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== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/03 (木)  小倉百人一首 (たち別れ)

たち別れ いなばの山の 峰に お ふる まつとし聞かば いま帰り来む
(ちゅう ごん ゆき ひら )
さあて 皆さん いよいよお別れ
私はいなば (鳥取県) へいにまする
いなばの国には 松の名所の稲羽 (イナバ)
峰の松ではないけれど
私を とおっしゃるならば
じきに帰ってくるわいな

行平は古来、美男で有名な、在原業平の兄である。斉衡 (サイコウ) 二年 (855) 、因幡守 (イナバノカミ) に任ぜられた。
“任地に旅立つ送別の宴で詠んだ挨拶の歌であろう” とおっしゃる大岡信 (マコト) 氏の解釈に私も賛成である。
『古今集』 巻八・別離に 「題しらず」 として出ているが、別れの歌という悲しみはなく、宴席にふさわしい口調のよろしさ、平明さ、陽気さがある。
行平がこの歌を口ずさむと、人々は、あまりにもうまく出来ているこの歌をたちまち好きになってしまい、うちそろって幾度もくり返した末、ついには酔いも手伝ってみんなで大合唱、 「たち別れ音頭」 というような具合になったのではないかと思わせられる。
「たち別れ」 「ソレカラ、ドーシタ」 「いなばの山の」 「ア、ドーシタ、ドーシタ」 「峰に生ふる」 「ア、ドッコイ、ドッコイ」 というようなものであろうか。
日本人は貴族も民衆も昔から宴会大好き民族である。この歌、解釈の必要はないと思うが念の為・・・・・・。
松に待つをかけ、因幡に往 (イ) なばをかけている。藤原俊成 (フジワラノシュンゼイ) の 『古来風躰抄 (コライフウタイショウ) 』 には、
「この歌あまりにぞく (俗か?) さりすぎたれど姿おかしきなり」
とある。 俗っぽい口調のよろしさに堕 (ダ) さず、風趣高きところが見どころ、というような意味であろうか。
行平の歌といえば、この歌の方が人々に愛されている。 『古今集」 巻十八・雑に、

「わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩 (モシホ) たれつつ 侘ぶと答へよ」

これには 「田村御時 (タムラノオホントキ) に、事にあたりて、摂津国 (ツノクニ) の須磨という所にこもり侍りけるに、宮の内に侍りける人につかはしける」 という詞書がある。
文コ (モントク) 天皇の時に、何か事件に連座したらしい。流罪というのではないが、みずから身を引いて僻地に籠っていたのである。
── ひょっとして、あいつはどうしているかとたずねる人があったら、須磨の浦でしょんぼりと落ち込んで世をはかなんでいると伝えて下さい。
この歌と、行平の蟄居の風説が、 『源氏物語』 の作者の想像を刺激した。紫式部はそこから、須磨に流された光源氏の君の構想を得た。行平は、光源氏のモデルの一部であるという光栄を担うことになった。
謡曲 「松風」 では、行平は須磨で、松風・村雨と名付けた姉妹の海人を愛し、二人は死後も物狂おしく行平を恋い慕う、という設定になっている。この謡曲では 「たち別れいなばの山の・・・」 の歌が使われている。
こうして見てくると行平も、弟の業平と同じく、悲劇の主人公というイメージが強いが、現実はどうかというと、順調に出世して、堅実な官吏生活を送った。
中納言というのは政界のトップメンバーの一人である。そこは出世の遅い業平とは違う。また業平のように美男であったかどうかも分らない。
業平とは異腹である。父はともに阿保 (アボ) 親王 (平城 (ヘイゼイ) 天皇の皇子) で、行平の母はまだ解明されていないが、身分の低い女性だったようだ。
ついでにいうと、江戸の古川柳で 「中納言」 といえば行平を指すのが、きまりになっている。古川柳の中納言は、はしたないお公卿さんでsる。
「腰蓑の上からつめる中納言」 ( 『俳風柳多留 (ハイフウヤナギダル) 』 二篇五丁)

潮汲み女は、海水で濡れないよう、作業衣の上に腰蓑を巻いている。流人の中納言はヒマなもんだから、女たちの仕事ぶりを眺めつつ、
「毎日、大変だね」
なんていい、腰蓑の上からギュッとつねったりしてからかい、
「キャッ、いややわァ、きらいッ」
などと嬌声をあげさせ、楽しんでいる
といった図。
「ハハア、流罪というのは、今でいうと単身赴任みたいなもんか。単身赴任した先で愛人ができる、というのは、オール男性女性の潜在願望やったから人気があるのかもしれまへんな、行平に」
と、与太郎青年は言い、
「男性はもとより、女性も都の高い身分の男とめぐりあうチャンス、というので・・・」
与太郎は何でも自分に即してしか、考えられない男であるらしい。
「ちょっと聞いていいですか。昔、僕が子供の頃、おばあちゃんは、おカイ (粥) さんたく、というと、きまってユキヒラという平たい土鍋でたいてましたが、この行平中納言と関係ありますか」
「ハイハイ、平たい土鍋は昔々、海水を煮て塩をつくっていたときの道具らしいのですね。塩焼きといいますが、それからして塩焼きの名所、須磨の浦に住んだ行平を連想して、フタ付きの平たい土鍋をユキヒラ鍋というようになったのです」
「あの鍋でたくおカイさんはうまかった。今日びは時間かかるいうて、女房もおカイさんなんかたいてくれまへん」
ユキヒラ鍋も雅であるが、久保田正文氏の 『百人一首の世界』 (文芸春秋刊) によれば、氏の郷里 (どこかは書かれていないが) では、猫が行方不明になった時、この 「たち別れ」 の歌を三度となえると、無事に戻って来るという言い伝えがある、といわれている。それも雅な習わしであろう。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ