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== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/07/01 (火)  小倉百人一首 (筑波嶺の)

つく  ば  ね の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて ふち となりぬる
(よう ぜい いん )
東国の歌枕 筑波山
その峰々からしたたり落ちる
小さな流れも
積もり積もれば男女の川となるのです
私の恋も 次第につもって
いつしか深い淵となりました

やさしいしらべの歌で、民謡のようにのどかな響きがある。
これは 『後撰集』 巻十一の恋の部に、 「釣殿のみこにつかはしける」 として出ている。つまり陽成院の妃となった綏子 (スイシ) 内親王 (光孝 (コウコウ) 天皇の皇女) に捧げられた恋歌である。
これが 「フツーの天皇」 だったら、どういうこともない歌だが、この陽成さん (868〜949) というおかたは風変わりな天皇で、悲劇的な生涯を送られた。御脳を病んで、物狂おしいお振舞いがあったという。王朝の世には、冷泉 (レイゼイ) 、花山 (カザン) という、これも変人の天皇さんがいられて周囲を悩ましたが、陽成さんのは、同じ変人ぶりでも凶暴性があったというから、始末に困ったものである。
藤原一族には仁明 (第五十四代天皇) ・文コ・清和 と三代にわたって一族の姫を後宮におくり込み、所生の皇子を強引に皇位に即けてきた。特に清和のときはひどい。文コ帝には清和さんの上に三皇子があったのに、それを飛び越えて生後九ヶ月の藤原系の清和さんを皇太子に据え、九歳で即位させた。
九歳の幼帝に、十八歳の藤原高子 (フジワラノタカコ) 姫がめあわされた。
在原業平との恋愛関係で、古来から有名な、スキャンダルにまみれた高子姫であるが、その頃、藤原一族はほかに持駒がいなかったので仕方ない。
十年後に陽成さんは生まれられた。チャーミングで奔放な高子姫と 「風儀甚だ美 (ウルワ) し」 と伝えられる清和さんの間にできた陽成さんは、さぞかし美しい少年だったろう。
陽成さんが九歳の年、父帝の清和さんが退位されたので父君と同じく九歳で即位、高子の兄・基経 (モトツネ) が摂政となる。
しかし陽成さんは長ずるに及んで矯激 (キョウゲキ) な性格があらわになった。
温和な父帝より、奔放放縦 (ホウジュウ) な母・高子の血を多く受け継がれたのかもしれぬ。
そういえば、藤原一族の姫には奇怪な血の流れがある。陽成さんの祖母、清和さんの母にあたる藤原明子 (アキラケイコ) 姫は染殿 (ソメドノ) の后とよなれ、美しさで並ぶものもない人であったが、常に物怪 (モノノケ) に悩まされ、鬼にとりつかれて精神の異次元へ拉 (ラチ) し去られること多かったという。
陽成さんは馬好きで、禁中で馬を飼い、そのくせ動物虐待の趣味があり、人殺しの風評さえ立った。これでは人主の器とはいえない。
その無軌道と凶暴ぶりには、さすがの権力者・基経も庇いきれなくなった。陽成さん十七歳の時、基経によって皇位を遂 (オ) われる。
退位後も、さまざまな乱暴な振る舞いがあって、都人をふるえ上がらせたという。
廃帝のやりばのない憤懣の一端を物語るエピソードがある。皇位を継いだ光孝天皇の、その次の天皇は宇多天皇であったが、宇多さんは、いっとき臣籍に降下され、陽成さんの時代には殿上人として仕えていられた。神社の行事などの時には、舞人 (マイビト) をつとめられたこともある。
宇多さんが即位されてのち、陽成さんの御所の前を行事で通られたとき、陽成さんは、
「ふん、わしの家来だった者ではないか」
と吐き棄てるよにいわれたという。
陽成さんの悲劇の一つは、欲求不満の生涯を、退位後六十五年もの長きにわたって送らねばならなかったことであろう。
八十二歳という長寿は、皇室関係者にはめったになく、ふつうならおめでたいことであるが、奔放で物狂おしい陽成さんにとっては、不如意の長い生涯が楽しかったかどうか。
そういう数奇な生涯を知って 「つくばね」 の歌をみると、そのやさしい調べに、まだ無垢な頃の少年の恋が思われて、陽成さんの悲劇の影をいっそう濃くする。
この歌をよんだ頃の陽成さんは、行手の暗雲について、思いもよらなかったかもしれない。
久保田淳 (クボタジュン) 氏はこの歌を 「ういういしい、いい恋歌」 といわれる。
陽成妃の綏子 (スイシ) 内親王は、父・清和のいとこに当り、あるいは陽成さんより年上の女性であったかも知れぬと推測していられる。
されば、幼な心に何となく好きだった、お姉さんのような女性への少年の日のあこがれが、成長するにつれて恋になったという歌ではなかろうか、といわれる。美しい解釈と思われるので紹介する。
熊八中年の考えるのは別のことのようで、
「そういうたら、昔、男女 (ミナ) ノ川という横綱がいましたなァ。子供のころダンジョガワと書いてミナの川とよむのが不思議でしたが、あのソコ名はこの歌に関係ありますか」
「男女ノ川は茨城県筑波郡の出身、といいますから、土地の名を取ったのでしょう。そもそも筑波山は、男体女体と峰が分かれていて、そこから発する川だから、名を男女 (ミナ) の川・・・・」
「容貌魁偉というようなお相撲サンでしたなァ」
「そうね、でもそこが親しみやすかった」
「下半身の弱いのが玉にキズ、だったようにおぼえてますが」
この歌は、歌まくらのきまりごとを超えて、どこかしみじみした静かな情感がある。陽成さんの人生で唯一の真実の恋だったのかもしれない。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ