〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/06/30 (月)  小倉百人一首 (天つ風)

あま つ風 雲のかよひ 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
(そう じょう へん じょう )
天空を吹く風よ
雲の中のかよい路を吹いて閉ざしておくれ
天へかえる少女たちを
もうしばらくとどめておきたいから・・・・・・・

この歌は 『古今集』 巻十七・雑にある。
「五節 (ゴセチ) の舞姫をみてよめる」 ということばがきにあるように、宮中の大きな儀式、豊明節会 (トヨノアカリノセチエ) で五節の舞が舞われる、その折の舞姫を天女にみたてているのである。
この 「天つ風」 はわりに人々に気に入られている歌で、かるたのゲームとしても、歌が覚えやすいせいか、子供たちが 「おはこ」 にしたりする。 「天つ風・・・・」 と読みあげられると、間髪を入れず <ハイ> <ハイッ> と声があがり、座に活気をもたらす歌である。調べも明るくていい。
百人一首のかるたには、同じような詩句が多いので、まちがえてお手つきをやるのが笑いをさそうが、 「天つ風」 はまぎれなくていい。
舞姫たちは良家の子女から選ばれ、みな美少女たちである。この歌はその連想からか、たいそう花やかで美しいイメージがあっていい。
「以前に天津乙女 (アマツオトメ) という宝塚の人がいましたな。僕は、あの人が作家かと思うた」
与太郎は無茶苦茶をいう。むろん、逆である。この歌から芸名が生まれたのである。
遍昭は俗名を良岑宗貞 (ヨシミネノムネサダ) といい、左近の少将だったところから世に良 (リョウ) 少将と呼ばれ、人柄は洒脱明朗、美男で容姿にも恵まれていた。時のみかど仁明天皇にたいそう寵愛され、社交界でももてはやされた色男だった。
嘉祥 (カショウ) 三年 (850) 仁明帝は崩御。その御大葬の夜から、良少将の姿はふっと消えた。
そのとき三十四歳だった。
友人や妻は驚き、けんめいに探すが、消息は知れない。帝の崩御を悲しんで後を追ったか、世を捨てたか。法師になったらなったで、どこからか噂も聞こえようものを、それも聞かぬところを見ると、淵川 (フチカワ) へでも身を投げたに違いないと人々は悲しんだ。
少将と関わりのある女は三人いた。妻と、二人の愛人だった。愛人二人には少将は、 「おれは出家する」 と打ち明けていたことがわかった。子供もいた妻には、そんな決心は気ぶりもみせていなかった。
妻は自分に打ち明けてくれなかった夫の心が恨めしく情けなく、泣く泣く初瀬寺 (ハセデラ) へおまいりした。夫の衣服や太刀をお布施として差し出し、導師のお坊さんに頼んだ。
「生きているならもう一度逢わせてくださる様に、仏さまにお願いして下さいませ。もしまた死んでいるのなら、どうぞ成仏するように、そして私の夢にでも姿を見せてくれますように、どうぞ仏さまに・・・・」
妻は嗚咽してあとがつづけられない。
たまたま、その隣の部屋に、いまは蓑一枚の僧形 (ソウギョウ) となった少将が来合わせていた。修業のため諸国のお寺を廻っていたのだ。よそながら妻の嘆きを聞いた少将の心は波立った。妻を誰よりも愛すればこそ、出家の決心は打ち明けなかったのだ。妻の悲しみを見れば、決心も揺らぐかと思い、黙って身を隠したのだった。
おれはここにいると叫んで走っていきたかったが、じっと心をおさえつけ、夜通し血の涙を流した。そうして夜明、人知れず立ち去った。
また彼は、小野小町のボーイフレンドでもあった。彼が行方を絶ってから、あるとき小野小町が清水寺に参詣したところ、聞きおぼえのある声で尊く読経する乞食僧がある。どうも宗貞のようだと思い、
「この寺におこもりする者ですが、寒いので衣をお貸し下さい」 といわせた。
するとその法師は返事をよこした。
「世をそむく 苔の衣は ただひとへ かさねばうとし いざ二人寝む」
── 私は世にそむいて出家した身、衣は一枚しかありません。といって貸さないのも薄情、よろしい、二人で寝ようじゃありませんか ──
その返事で宗貞とわかり、呼び寄せたが、すでに姿を消していた。機智と洒脱は彼のもちまえで、世を捨てても失ってはいなかった。
苦しい修行の甲斐あって、のち僧正の位にのぼり、花山 (カザン) に元慶寺 (ガンギョウジ) を創設し座主 (ザス) となった。
この遍昭は 『古今集』 の序では 「歌のさまは得られども、まこと少なし」 と評されているが、当時では愛された歌風であった。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ