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== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/06/30 (月)  小倉百人一首 (これやこの)

これやこの 行くも帰るも わかれては しるもしらぬも 逢坂あふさか の関
(せみ まる )
これがかの 有名な逢坂の関よ
東くだりの旅人も 都へ帰る旅人も
知る人も知らぬ人も
別れては逢い
逢うては別れ してゆき交う
人の世の別れと出会いを暗示するのか
その名も逢坂の関

『後撰集』 巻十・雑に、 「あふ坂の関に庵室をつくりてすみ侍りけるに、ゆきかう人を見て」 として出ている。なかなか口調のよろしき歌で、おぼえやすい。
百人一首のかるたの絵で見ると、蝉丸はかぶりものをしていて、僧ともいえず俗体 (ゾクタイ) ともいえず、ふしぎな姿、 「坊主めくり」 などすると議論がわくところである。
蝉丸というのは伝説的な人物で、はっきりしない。定家の時代は実在を信じられていたかもしれないが、その生涯は秘密のベールに包まれている。
『今昔物語』 では蝉丸は敦実 (アツザネ) 親王 (宇多天皇の皇子) の雑色 (雑役をつとめる身分の低い従者) ということになっている。
親王は音楽家として著名で、琵琶をよく弾かれた。蝉丸は長年お仕えしていてその音色をおぼえ、自分もいつかその道の名手といわれるようになった。のち盲いて法師となり、逢坂の関に庵を結んで暮らしていた。
この蝉丸の琵琶を聞きたいと熱心に望んでいたのが、源博雅 (ミナモトノヒロマサ) (世に博雅三位 (ハクガサンミ) と呼ばれている) という、これも有名な音楽家である。
琵琶には流泉 (リュウセン) ・啄木 (タクボク) という名曲があるというが、今の世では蝉丸しか知る人はないという。蝉丸が亡くなればその名曲は世に絶えてしまう。自分もいゆまで生きているか分からないが、ぜひその曲を聞きたいと博雅は思い、人をして蝉丸を招き、 <京に住みませんか> といった。
蝉丸はそれに答えず、歌で返した。

「世の中は とてもかくても 過ごしてむ 宮もわら屋も 果てしなければ」
どこに住んでいても同じこと、宮殿もわらぶき小屋も、永久に住み通せるものではない、いつかはお迎えがくるのでございます。
博雅はそれを聞いて、おくゆかしく思い、いよいよ蝉丸の琵琶が聞きたくなった。それで自身、逢坂の関までゆき、よる、庵の外からこっそりうかがっていた。もしかして蝉丸がその秘曲を弾くこともあろうかと期待してのである。
名人というものは気むずかしいから、自分がその気にならなければ、いかに懇望しても承知しないであろう。博雅は自分も名人だけに、名人かたぎをよく理解していたのだ。
毎夜毎夜、逢坂まで通い、今か今かと思ううちに、はや三年経ってしまった。
三年目の八月十五日の夜。月はややかげり、風葺き、あわれ深い夜となった。こんな宵こそは蝉丸も感興を催すであろうかと、博雅は勇んで逢坂へ出かけた。
はたして蝉丸は見えぬ目に月を仰ぎ、物思いにふけりつつ、琵琶をかきならす。博雅は嬉しくてみにを傾けていると、法師は歌をよんだ。
「逢坂の 関のあらしの はげしきに 盲 (シ) ひてぞゐたる 世を過ごすとて」
哀々たる琵琶の音色に添えて、悲痛なさびしい歌、芸術家の博雅は胸せまって涙が流れた。
蝉丸は琵琶を抱き、ひとりごちた。
<・・・・ああ、もののあわれというのは、こんな夜のことをいうのやろか。誰ぞ、もののあわれの解るお人はいやはらへんもんかしらん。音楽好きなお人でもいやはったら、どない面白う、話も弾むやろうか>
博雅は名乗り出ずにはいられなかった。
「私は都の住む博雅と申すもの。そなたの琵琶が聞きたさに、三年通いつめたものです」
蝉丸は博雅の熱意と、音楽に対する愛情を賞 (メ) で、心を開いて博雅を招き入れた。そうして乞いに任せて、流泉・啄木の名曲を弾いた。
博雅はよくよく聞いて教わり、 「返す返す喜びけり」 と本にはある。
『平家物語』 や、世阿弥の謡曲では、蝉丸は醍醐天皇 (十世紀前半) の第四皇子という尊い身分になっている。謡曲 「蝉丸」 は、盲目のため逢坂山に捨てられた皇子蝉丸の宮を、姉の逆髪 (サカガミ) の宮 (このネーミングの発想も凄い。髪が逆さまに生え上がって撫でつけてもさがらないという、つまり二人とも皇子女に数まえられぬ不孝な身の上なのである) が訪れてたがいに運命を嘆き、別れてゆくというもの、これが浄瑠璃や歌舞伎に脚色され、蝉丸のイメージは芸能分野で多彩に展開してゆく。
しかし実在の蝉丸はいよいよあいまいとなり、霞の奥にまぎれてしまう。そういえば 「これやこの」 の歌も、どこか詠み人知らずの伝承歌のようでもあり、ひょっとしたら王朝ごろから多数いた芸能集団 (その中には目の不自由な人たちもいただろう) を、蝉丸という一人の人物に集約し象徴したのかもしれない。琵琶法師たちのオハコの歌が 「これやこの」 だったかもしれぬ。
「ハハァ、つまり、田端義夫がギターを持って 「オッス」 と出てきて 「かえり舟」 を唄う、あんな風ですか」
と熊八中年は怖いもの知らずでいう。
「バタやんというと、ギターと 「かえり舟」 を連想しますが、蝉丸というと琵琶と 「これやこの」 にきまってたんでしょうか」
蝉丸が王朝のバタやんだなんて私も初耳。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ