〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/06/27 (金)  小倉百人一首 (わが庵は)

わがいほ は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と ひとはいふなり
( せん ほう )
わが庵は 都の東南
宇治山なのです
鹿の鳴く里に
く 私は心も澄み
気もはればれと住んでいます
それなのに 世の人は
私が世を憂しとみて
かくれこもっているようにいうのです
『古今集』 巻十八の雑にある。
宇治山 (ウジヤマ) に 「憂 (ウ) 」 をかけ、 「しかぞすむ」 は 「鹿 (シカ) 」 も暗示しているとみる方が自然であろう。
たつみは十二支の方位でいうと東南 (辰巳) である。宇治はまさに京都の東南に当る。
かるい諧謔の歌で、いかにも古今集的。ことさら名歌というのではないが、この軽みは一つの境地で、洒脱な口吻 (クチブリ) がたのしい。
── と、まあ、喜撰法師のこの歌はそんな風に受け取られているのが大方である。
しかし織田正吉氏の 『絢爛たる暗合』 では二つの大胆な問題提起がある。
一つはこの歌の解釈について。
この歌は十二支の遊びだといわれる。子・丑・寅・卯・辰・巳・午・・・・・とつづく十二支のうち、宇治山の 「卯」 、それに 「辰」 「巳」 と入っている。当然あとへ 「午」 とつづくべきところ、 「しか」 を持ってきて人を意表外に笑わせる、といわれるのである。
この時代の人々はむろん、 「馬」 と 「鹿」 に関する故事 ── 「鹿をさして馬となす」 という中国のお話をよく知っていただろう。秦の趙高 (チョウコウ) という腹黒い権力者が、あるとき鹿をさして馬だと人々にいった。硬骨の人は、いやそれは鹿ではないかと反駁し、おべんちゃらをいう人は、ハイ、馬でございますなと追従した。秦ずつを述べた人は趙高によって殺された。
この故事から、間違ったことを押しつけて人を陥れることを、 「鹿をさして馬となす」 というのである。喜撰はそれをふまえつつ、 「うま」 というところを 「しか」 とやって人を笑わせたのだろうと、いわれる。
その二つは、この歌を定家が採ったことについて。
定家は 「都のたつみ」 に心そそられた。その方角が示唆するもの、それは後鳥羽院配流 (ハイル) の地、隠岐からは、京都はまさに東南に当る。
隠岐を都とみれば、定家のいる小倉山荘、定家の 「わが庵」 は 「都のたつみ」 でもある。
定家は院の憎悪をひしひしと感じつつ、 「憂し」 とみて、せめて 「百人一首」 のクロスワードパズルをつくり、院のお怒りを鎮め、おのがまことをわらわそうとした、そのため、京と隠岐の位置関係を暗示する 「都のたつみ」 の歌を採ったといわれる。
これも私にはたいそう説得力のある説である。
簡単に、定家と後鳥羽院の関係を述べておく。なぜ、定家は院に憎まれたか。
後鳥羽院という、院政期の一大趣味人、度はずれた遊蕩児で、好事家 (コウズカ) であった型破りの帝王、この院が和歌に興味を持たれたのは正治 (ショウジ) 元年 (1199) のころ。
まだ二十歳ぐらいであられたが、当時四十近かったプロ歌人の定家の歌を愛され、二人の仲は急速に緊密になる。
やがて 『新古今集』 撰進を定家らに命じられる。この頃が二人の蜜月であった。定家はこの光栄をどんなに喜んだことであろう。寝食を忘れてその仕事に打ち込む。
しかし歌に生涯を賭けたプロ歌人と、帝王の趣味として歌を楽しむ後鳥羽院とは、芸術に関する信念がまるで違う。しかもどっちも個性強く、片や狷介 (ケンカイ) であり、片や一徹である。
後鳥羽院は、専門歌人ら数人 (定家をはじめ、源通具 (ミナモトノミチトモ) ・藤原有癒え (フジワラノアリイエ) ・家隆 (イエタカ) ・雅経 (マサツネ) ら) が心こめて撰んだ和歌を、あとから恣意的に自分好みに 「切り継ぎ」 し、歌を捨てたり、入れたり、された。
プロの面目丸つぶれであると定家は憤り、次第に院との間が疎くなった。院に疎まれることは、社会的にも逼塞することであって、定家はこの時期、出仕もできず、経済さえたちゆかなくなってしまった。この時代、歌人はみな、有力な政治家のパトロンを持たないと、和歌の家として存続できなかったのである。
ところが後鳥羽院はもともとエネルギッシュで、やる気まんまんのご気性であるから、政治に興味を持ち、幕府をつぶして天皇親政を実現しようという大望を抱かれ、承久 (ジョウキュウ) 三年 (1221) 兵をあげて、あえなく敗退、隠岐に流される。
あべこべに定家はそのころ、親幕派の親類のおかげで、めきめきと家運を盛り返していたが、幕府の目を恐れて、隠岐の院とは文通もしなかった。
ほかの歌人は、手紙や歌をやりとりしていたようであるが、定家は、内心はともかく、うわべはふっつり交渉を絶ったのである。
後鳥羽院の憎しみは定家に向かって絶えることなかった。
老いたる定家はその誤解を解くよしもなく、わずかに百人一首で院への思いを託したのであろうか。
ところで、この歌の作者、喜撰法師というのは不思議な坊さんである。作品としてたしかなのはこの一首しか伝わらないのに、六歌仙の一人として重んじられている。伝説的な人で、宇治山に隠れて仙人となって飛び去ったともいわれる。
清元・長唄で歌われ、歌舞伎で躍られて、喜撰の名は、粋な、さばけた人のイメージがある。それこそ本来の喜撰法師の持ち味であろう。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ