〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/06/27 (金)  小倉百人一首 (天の原)

あま (  はら ふりさけ見れば 春日かすが なる  み かさ の山に (  でし月かも
(安倍あべの 仲麿なかまろ )
大空はるかに ふりあおげば
明るい月がかかっている
あれは その昔 私が
故郷の日本で見た月だ
奈良の春日にある三笠山に
さし出た月だ
昔から日本人にたいそう愛された望郷歌である。歌の姿も大きく、しらべも楽しく、望郷の悲しみを惻々 (ソクソク) とうたって余情は深い。
故郷を流離する日本人が、月を仰いでうたうべかりし歌を、千二百前の仲麿がすでに歌ってくれている。私たちは異郷で月を見て、故郷恋しの念がきざしたとき、この歌を口ずさめばよいのである。
『古今集』 巻九の羇旅 (キリョ) の歌にある。 「唐土 (モロコシ) にて月をよみける」 という詞書があり、わりに長い左註 (サチュウ) がある。
この左註の文章、典雅なやまとことばなので掲げてみる。私はつねづね、自分の小説もなるべく漢字を使わず、英語なんかも入れず (入れたくてもよく知らない) 、ひたかな、やまとことば、わかりやすい日常語で書きたいという、ひらかな文学派を気どっている者であるが、そうなるとまた、ややもすると卑近になり、この、わかりやすさと、気品ということは中々両立しにくい。
しかし昔のやまとことばは、易しくて気品がある。この歌の註に曰く、
「この歌は、昔、仲麿を唐土 (モロコシ) にものならはしに遣 (ツカ) はしたりけるに、数多 (アマタ) の年をへて、え帰りまうで来 (コ) ざりけるを、この国より、また、使 (ツカヒ) まかりいたりけるに、たぐひてまうで来なむとて出でたりけるに、明州 (メイシュウ) といふ所の海辺にて、かの国の人、馬 (ムマ) の贐 (ハナムケ) しけり。夜になりて、月のいとおもしろく出でたりけるを見てよめる、となむ語り伝ふる」

仲麿は遣唐留学生であった。当時、唐と呼んだ中国へ 「ものならはし」 に遣わされたのである。留学生というより 「物習わしにやる」 というのはわかりやすくていい。
養老元年 (717) 一行は四艘の船で出発した。この時の遣唐船は奇跡的に四艘とも帰還した。遣唐船は、行くのはどうにか中国大陸のどこかへたどりつけるが、帰るのが難儀で、難破漂流して、一、二隻欠けるのが普通である。
ところが、この養老度の一行は無事に生還している。ただし、仲麿たち留学生を中国に残して・・・・。
仲麿が唐の地を踏んだのは十七歳の時であった。
若き仲麿が見た唐と、その都、長安はどんなさまであったろう。
時に玄宗の開元五年、唐は最盛期を迎えようとしていた。長安の繁華はさぞかし日本の留学生を有頂天にさせたにちがいない。東西の市場は賑わい、大邸宅寺院はひしめき、西域の胡 (コ) 人も往来し、町には珍貴な品が溢れる。
女たちは美しくグラマーで、若者たちは驕奢 (キョウシャ) に酔い痴 (シ) れる。

「銀鞍白馬、春風を渡る 落花踏み尽くして何処にか遊ぶ 笑って入る胡姫 (コキ) の酒肆 (シュシ) の中」
酒、音楽、詩 ── 仲麿は長安の魅力にとりつかれたことであろう。それが、 「数多の年をへて、え帰りまうで来ざりけるを」 ── 長いこと留学して、よう帰って来なんだということであろう。
もっとも、仲麿は遊んでばかりいたわけでなく、いずれは故国に帰って役立てようと、せっせと先進国の政治経済、文化一般を勉強したらしい。
優秀な人材であったとみえ、唐朝に出仕し、玄宗に仕えて高級役人ともなった。これは後進国の留学生として、たいへんな栄光である。
しかも詩才のあった彼は、同じような年頃の詩人、李白や王維らとも親交を結び、いよいよ人生が面白くなっていたろう。名前も中国風に朝衡 (チョウコウ) と名乗った。そうしていつか三十六年の月日が経った。
天平勝宝 (テンピョウショウホウ) 五年 (753) 、藤原清河 (フジワラノキヨカワ) を大使とする遣唐使の一行が入唐した。
この一行と共に帰らなければ、次はいつになることやらわからない。遣唐使は定期便ではないのである。十七、八年から二十年くらい、間をおいている。仲麿は思い切って共に帰国することにした。
それが註にある、
「この国より、また、使まかりいたりけるに、たぐひてまうで来なむとて出でたりけるに」
ということである。
李白らは親友との別れを惜しんだ。そして明州で、餞別の宴を張ってくれた。
そのとき、海辺に出た月を見て、ああ、奈良の三笠山に出た月だ、と仲麿は感慨をもよおしたのである。故郷の山河、変わらずにありや否や。もうすぐ、それらと再会できるのだ・・・・。
ところがなんという運命の皮肉、仲麿と清河らの乗った船は暴風にあい、安南 (アンアナン) に漂着、命からがら、再び長安に舞い戻って、二人とも終生、日本の土を踏むことはできなかった。
仲麿は唐朝に仕え、七十で、かの地で死んだ。その運命を思うと、この歌はあわれ深い。
「なあに。仲麿はんは日本へ帰れぬようになって、内心ホッとしたかもしれまへん」
と熊八中年はニヤニヤしていう。
「故郷は恋しいものとはきまっとりまへん。二度と去 (イ) にとうない故郷もある。文化程度は低いし、人の心は狭うて貧しい、そんなトコはかなわんと思うたかもしれぬ ── 何より、自分の才能を認めてもらえた、そこに唐の国のよさがある、仲麿はんは、ルンルン気分で一生を送ったに違いおまへん」
── してみると、自分を認めてくれる所が人間の故郷なのだろうか。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ