〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/06/25 (水)  小倉百人一首 (田子の浦に)

の浦に うち でてみれば 白妙しろたへ の 富士のたか に 雪は降りつつ
(山部やまべの 赤人あかひと )
駿河の国の
田子の浦に たたずんで
はるかにみれば
真白き富士の高嶺に
雪は降りつむ

絵のような景色で、床の間の掛け軸の如くである。これをよみあげるとき、いかにもお正月らしき、また日本の冬らしき、身の引き締まる思いがして、なかなかに、よろしきものである。
しかし、作者の山部赤人が、地下でこの歌を聞いたら、
「お、お、お、・・・・・・待てよ・・・・」
と首をかしげるにちがいない。赤人が作ったのは、
「田子の浦ゆ うち出て見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」
という歌だったのだ。
これは 『万葉集』 の巻三にある。 「山部の宿禰 (スクネ) 赤人の不尽の山を望める歌一首」 とある、長歌にあわせた反歌が、この 「田子の浦」 なのである。赤人のもとの歌は、田子の浦を 「通っている」 わけで、そこから見る富士山は真っ白に雪が降り積もっていた、その、 「真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」 という、言い切ったひびきが男らしく力づよい。
率直な感動が伝わってくる。 「真白にぞ・・・・降りける」 という現場に立った感動に比べると、 「白妙」 などと飾った言いまわしや、 「降りつつ」 などという改竄 (カイザン) は感興をそそぐこと甚だしい。
この歌は 『新古今集』 に転載されたとき、新古今風に、しらべを重視して、一首のながれを優美にするため、変えられてしまったのである。
昔から、この改悪は評判が悪くて、2番の持統天皇の歌同様、もと歌の 『万葉集』 に載ったほうがよかったのに、と惜しがられている。
私の学生時代は昭和十年代で、 『万葉集』 全盛のころ。 『古今・新古今』 はオール否定、という気運が盛んであったから、この歌なども引き合いに出されて、いかに 『新古今』 時代の歌人が、歌を形骸化したか、という証拠にあげられたりした。
正岡子規の 『歌よみに与うる書』 以来、 『古今・新古今』 の神聖性は地に引き落とされたが、ことに戦時中だったからなおのこと、柔媚・繊細といった情調はかいもく、顧みられなかったのであった。
子規の勇み足によれば、
「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集にこれあり候」
「定家という人は上手か下手かわけのわからぬ人にて新古今の撰定を見れば少しはわけのわかっているのかと思えば自分の歌にはろくなものこれなく・・・・」
などとさんざんである。もっとも、和歌千年の権威を一撃のもとにうち倒して、革新の火の手を上げた彼の意気込みと功績は大きい。
しかし近年になって、 『新古今』 『古今』 の新たなる値打ちが見直されてきた。自然と人間との融和のたたずまいの美が、人々に好もしがられはじめた。
( そして、その上に、これはことごとく最近になっての発見であるが、さきに挙げたように織田正吉氏の百人一首研究によれば、 『古今集』 の歌の配列も、その背後に、それ自体巨大なクロスワードパズルが暗示されているかもしれないという。古典の神秘はまことに奥深い)
『新古今』 の美学によればこの歌は 「白妙」 や 「雪は降りつつ」 でなくては、ぎくしゃくして美しくない。と思ったのであろう。
「少々、意味が変わってきてもしょうおまへん、しらべがなだらかなんが第一どす」
と公卿歌人らはうなずきあったのかもしれない。
実際、この歌をかるたで読みあげる時は、 「雪は降りける」 よりも
「雪は降りつつゥ・・・・」
というほうが耳に快い。朗誦に堪え得る歌となっている。
山部赤人は柿本人麿と並び称される 『万葉集』 の歌人。清らかな、静かな自然観照の歌が多い。この長歌もたいそういい作品で、私は好きである。

天地あめつち の 分れし時ゆ かむ さびて 高くたふと き 駿河なる 富士の 高嶺を あま の原 ふりさけ見れば 渡る日の 影もかく らひ 照る月の 光も見えず 白雲しらくも も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺   は」
高橋虫麻呂(タカハシノムシマロ) という歌人も、富士山の長歌の中で
日本ひのもと の 大和やまと の国の しづ めとも います神かも 宝とも なれる山かも」
と歌っている。歌っているが、
「今は新幹線の窓から見ると、工場の煙もくもく、でっせ。富士山もかすんでる」
与太郎青年は、昔から公害があったように平気な顔でいる。
「田子の浦は汚染されてますし、な、どうしようもない」
「日の本のたからの山と、昔の詩人は讃美しているのに残念ですね」
美しき田子の浦と富士山は、やがて郷愁の中の絵になってしまうのかもしれない。
昔、 「富士野高嶺」 さんという宝塚のスターがいた。いまも健在で、生徒さんたちに日本舞踊を教えていられるようである。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ