〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/06/25 (水)  小倉百人一首 (あしひきの)

あしひきの 山鳥やまどり の しだり の ながながし夜を ひとりかも寝む
(柿本かきのもと 人麿ひとまろ )
山鳥のながながしいしだれ尾のように
まことに長き秋の夜を
山鳥の雄と雌が離れて恋合うに似て
あなたを恋いつつ
ひとり寝をすることよ

『拾遺集』 巻十三・恋に、 「題しらず 人まろ」 として出ているが、この歌、人麿の作かどうかは未詳。
『万葉集』 の巻十一に、
「思へども 思ひもつかね あしひきの 山鳥の尾の 長きこの夜を」 (1802) とあり、左註に、
「或る本の歌に曰く 『あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む』 」 と出している。
しかしここには人麿の作とは書いていなくて、詠み人知らずになっている。いつ、なぜ、人麿作とすりかわったのか、詳しい事はわからない。
ただしこの歌、王朝びとに愛されそうな、しらべなだらかでやさしい歌である。
山鳥を図鑑で見ると、赤銅褐色の、キジくらいの大きさの鳥である。尾がまことに長い。体の二倍くらいあるのを引きずっている。 「しだり尾のながながし」 とは、よういうたもの、昔の人は、自然をようく観察したとみえる。
柿本人麿は、私たちが学校で習うところによれば、持統、文武朝 (七世紀末から八世紀初頭) において、皇族鑽仰 (サンギョウ) の歌や挽歌の秀作を 「万葉集』 に多く残した、白鳳時代の宮廷歌人である。
しかし庶民にとってはそんな難しいことは知らん、人丸はん (文字もやさしくなる) は身近な神サンである。兵庫県明石市の、人麿をまつる人丸神社は、火災よけの神サンとして知られている。
ヒトマル ── 火止まる、である。ヒトウマル ── 人産まる、で安産の神サンでもある。また、民間の伝承によると、人丸はんは、この明石で、
「ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島がくれゆく 船をしぞ思ふ」
という歌を詠みはった、ということになっていて、明石は海の難所である所から、水難よけの神サンでもあり、 「あかし」 から目を明かして下さるだろうというので、目の神サンでもある。
昔、筑紫 (ツクシ) から目の見えぬ娘がはるばる明石の人丸社までお詣りにきた。そうして七日の間参籠して、歌を詠んだ。
「ほのぼのと まこと明石の 神ならば 我にも見せよ 人丸の塚」
とたんにぱっと目があき、彼女の目に美しい明石の浦の風景が飛び込んできた。おどろき喜び、人丸はんにようくお礼申し上げて、携えて来た杖も不用になったからと、社前に突き刺して帰っていった。杖はそこへ根付いて、毎年美しく桜の花が咲いた。これを盲杖桜 (モウジョウザクラ) と今に呼ばれている。
人丸はんは、不思議な伝説にまみれた人である。
庶民だけではない。インテリtちも、人丸を歌聖と尊ぶ。ほかの歌人はそう呼ばれない。山部赤人も、大伴家持も歌聖とは言われないが、すでに 『古今集』 序に、貫之は、
「柿本人麿なむ歌の聖なりける」
ろ書いている。人丸は歌人たちの守り神となる。人丸が死んで後四百年近く経った頃、粟田讃岐守兼房 (アワタ サヌキノカミ カネフサ) という人が人丸の夢を見た。この人は日頃から、どうかしていい歌を詠みたいと熱心に念じていたが、なかなかうまくいかない。心でいつも人丸にすがっていたのであるが、ある夜の夢にふしぎな老人が現れ、
「年来、この人丸を念じているそなたの志が深いによって、姿を現しましたぞ」
と言った。左の手に紙を持ち、右の手に筆を持って、物を案ずる気色であったという。兼房は目がさめて感激し、おぼえているその姿を絵師に話して書かせた。それを拝んだところ、歌が思うように作れたと言う。
のちにこれを、歌人の六条顕李 (ロクジョウ アキスエ) が、ぜひと借り受けてコピーを作らせ、それでもって 「人丸影供 (ヒトマルエイグ) 」 を行った。これは人丸の絵像をかけ、机に供養のもの、菓子、漁鳥、飯まど供え (但しつくりもの。実物ではないという) 、当代最高の歌人源俊頼 (ミナモトノトシヨリ) が人丸の影像に盃を捧げる。絵の人丸は六十歳ばかりの老人に描かれていたという。
その影像の前で歌人たちは敬虔に、しかも和気藹々と歌合せを催したのであった。
「衆人興に入りて、おのおの後会を約しけり」 と 『古今著聞 (ココンチョモン) 集』 にはある。これが元永元年 (1118) 六月十六日のこと、 「人丸影供」 のはじまりとされている。
人丸はんはかくして、神秘な歌の守り神、供養される仔細ある妖しい秘儀の主人公となった。
この謎を解明されたのが梅原猛 (ウメハラタケシ) 先生の 『水底 (ミナゾコ) の歌』 (集英社刊) であった。
先生はなぜ人麿が神になったかという推論をじっくりと展開される。人麿は刑死し、鎮魂のため神サンに祀られたのだと先生はおっしゃるのである。民間伝承の暗黒の奥へ踏み入り、古代中世の人々と精神感応しつつ、近代的知性で人麿の神秘をくまなく照射されたそのお説は、我々には魅力的な、説得力のある新説であった。
そんなことを考えつつ、 「山鳥」 の歌をよむと、 「ほのぼのと」 は海難よけの歌だから、 「山鳥」 は山の神への挨拶の歌のつもりで、昔の人は、この歌を人丸作としたのではあるまいか、などと考えたりしてしまう。
ともあれ、 「山鳥」 の歌、 「の」 の音がつづくのでひびきが柔かく、読み手がよみあげる時に、まことに楽しい、よき歌である。民衆の愛誦に堪える雅歌といってよい。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ