〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
== 小 倉 百 人 一 首 ==

2008/06/24 (火)  小倉百人一首 (秋の田の)

『秋の田の かりほの庵の とま をあらみ わがころも は 露にぬれつつ』
てん てん のう
みのりの秋の田の
番小屋に 私は泊まっている
屋根を葺いた苫は粗く
漏る露に
私の袖は しとどとぬれた
「小倉百人一首」 巻頭の歌として名高い。
もともと、この歌は天智天皇の作ではない。『万葉集』 を少しかじった人ならすぐに気付くことだが、この歌のよみぶりは王朝のもので、天智帝の七世紀ごろの歌風ではない。
『万葉集』 捲十に、読み人知らずとして 、
「秋田かる かり を作り わが居れば ころも さむく 露ぞおきにける」
とというのがあり、これが世にひろまるにつれ、平安朝の歌風に変えられ、作者にいつか天智天皇が擬せられるようになった。それで 『後撰集』 秋の部に、 「題知らず 天智天皇御製」 としてのせられ、さらに定家も百人一首を選ぶ時、そこから採って冒頭に据えたのだろう、といわれている。
なんで天智天皇をまっ先に据えたかということも、古来からケンケンゴウゴウ、議論のたねである。一説には、奈良時代の皇統は天武 (テンム) 系であったが、都が京都へ遷って平安時代になってからは天智系となり、王朝の皇室や宮廷人は、天智帝を尊崇すること篤かった。それゆえ定家も、平安朝詞華集というべき 「百人一首」 の冒頭に皇統の始祖・天智帝をもってきたのだといわれる。
また読み人知らずのこの歌は、天皇として農民の苦労を思いやったもの、という解釈もあるが、王朝末期の幽玄派の歌人・定家がそんな二宮尊徳のような考え方で、歌を選ぶはずはない。戦乱の時代にあえて、 <戦争なんかオレの知ったことか> というような男である。農村を歌に詠んでも、情緒の雅を尊ぶのである。
ついでにいうと、百人一首は、一首ずつ解釈しても本当はしようがない、という新説がある。これは百首でもって作りあげた歌のクロスワード、文学的アラベスクである、というのである。定家はそれらの歌をたくみに配置し、たがいに連繋し、照応し、ひびきあう巨大な情念の世界を構築した、というのである。
百人一首は言葉あそびのジグソーパズルであったというのだ。
これは百人一首研究家として言語遊戯研究家のエッセイスト・織田正吉氏の説で、くわしくは氏の 『絢爛たる暗合─百人一首の謎をとく』 (集英社刊) をお読みください。私はこの本を読んで、長い間の百人一首に対する疑問が氷解した気がした。
歌聖といわれる定家が選んだものだから、名歌なのだろう、と中世以来、漠然とみんな思ってきたが、百人一首の中には、ずいぶん阿呆らしいような愚作や駄歌がいっぱいある。私もそこが不思議だったのだ。しかしパズルの一ピースとすればわかるのである。
昔の日本人は、和歌でもってずいぶん、楽しい遊びを考えついたもののようである。たとえば 『伊勢物語』 九段にある有名な歌のように、 「かきつばた」 という言葉を入れて歌を詠めといわれて、
らごろも つつ馴れにし ましあれば  るばるきぬる びをしぞ思ふ」 ──

しかもこの歌は頓智だけでなく情感もそなわり、さすらいの旅人の心を動かして涙を落とさせたという・・・・・そういう遊びが伝統的にあるので、定家が百首をもって、さまざまなクロスワードパズルを楽しんだというのも、あり得ることである。
まああしかし、その遊びを味わうにしても、一首ずつに馴染んでおくほうがいい。
ところで私がまず友人の青年に、
「百人一首好きですか」
と聞いてみたら、 (名前をかりに与太郎とする) 与太郎青年は
「知りまへん」 という。
中年の知人 (これが熊八という名にする)熊八中年も、
「百人一首というようなものがあることは聞き知っとりますが・・・・・」 という 。
私はへーえとおどろき、
「百人一首知らないんですか?!」
と声がたかくなってしまう。
「何いうてはりまンね、ほんなら野球のこと知ってはりまっか、巨人の今日のラインアップ・・・・」
与太郎は口惜しそうにいい、野球のことをいわれると私も、 「知りまへん」 になる。
つまり、古典というものはそういうものであろう。よーく知っている人は知っているが、知らぬ人は知らないので、読んでも聞いてもつまらなくなるということであろう。
私もその点を心しつつ、百人一首を楽しんでいくことにしよう。といってもわたし自身、国文学にはシロウトであるから、よくわからない点もある。
なおまたついでにいうと、熊八中年はさすがムカシ人間だけあって、 「百人一首」 のことを 「ひゃくにんしゅ」 と呼ぶ。これは古来からのよみぐせであって、今もそう発音する学者先生もいられる。ちょうど舌づつみ、腹づつみを、本来なら舌つづみ腹つづみというところを、古くからのいいぐせで、舌づつみ、腹づつみと発音するようなもの。王朝は角張った言い方をせず、やわらかい発音を好むので、なだらかになる。もちろん、 「百人いっしゅ」 といっても間違いではないが。私の子供の頃は大人も子供も 「ひゃくにんしゅ」 で、これは京都へんも同じだったようだ。
ところで、織田正吉氏の 『絢爛たる暗合』 によれば、この 「秋の田の」 の歌には、またまた意表を衝く卓説が用意されている。
天智天皇は大化の改新のクーデターをおこして新しい時代を切り開かれた。これを承久の変をひき起こして失敗した後鳥羽天皇と対置して、後鳥羽院の無念の思いと、果たすべかりし夢を暗示しているというもの。
しかも歌の 「かりほの庵の苫 をあらみ」 は後鳥羽院流謫 (ルタク) の地、隠岐の、粗末な安在所 (アンザイショ) の暗喩 (アンユ) でもあるという。
そんなことをあからさまに言挙 (コトア) げすれば、たちまち幕府ににらまれてしまう。定家は、 「百人一首」 にことよせて、後鳥羽院びいきの衷情 (チュウジョウ) をひそかに示し、知る人は知ってくれるのではないか、後世の人はこの謎を解き、自分の心持もわかってもらえるのではないか ・・・・ という望みを込めて巻頭にしたのではないか、といわれるのである。
この説も私にはわかりやすくていい。
「百人一首」 と別に 「百人秀歌」 というのが戦後発見されている。
やはり定家が選んだものであるが、微妙に 「百人一首」 と違う部分がある。順番が違い、後鳥羽院・順コ院の歌がない。別の人の歌が代わりに入って、百一首になっている・・・・・などのことから、定家は、 「百人秀歌」 を先ず選び次いでそれを改訂して 「百人一首」 を選んだ、というのが定説になっているようである。
しかしこれも織田氏は 「百人一首」 と 「百人秀歌」 は番 (ツガ) いの百首合わせではないかという壮大な仮説をたてられている。魅力的な仮説であるが、ここでは詳しく述べない。
「百人秀歌」 は二首一組で配列されているという説もあるが、それより、百首全部で配列され、いわば歌の魔法陣に囲まれて、定家はその中に座って、隠岐の後鳥羽院の呪詛と憤怒から身を守り、かつは、院の心を鎮めようとした、・・・・・という織田氏の解釈の方が、私にはいかにも王朝末期らしいおどろおどろしさで、しかも老いて神経過敏になり、心弱くなっていた定家には、ふさわしいイメージのような気がする。
比類なき歌学者であった定家が、 「秋の田の・・・」 の歌は天智天皇の御製ではないことを、知らなかったはずはない。
しかしいつとなく天智帝のお作と伝承されてきた、その伝承の居心地よさに、定家はうまく乗りかかり、利用したのであろう。
歌そのものも優しくしおらげな口ぶりで、アンソロジーに入れても悪くはない。しかも世間はそれを天智天皇お作と信じ込んでいる。定家は何食わぬ顔でそれを拉し来ったのであろう。
「百人一首」 の二番目は、持統天皇の 「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」 である。これを後鳥羽院が作らしめられた歌集 『新古今集」 でみれば、二首目は後鳥羽院のお作で 「ほのぼのと 春こそ空に 来にけらし 天の香具山 霞たなびく」 何と暗示的!。
この事実も織田氏のご指摘で、はじめて私は気付いたことであった。とにかくどこにも後鳥羽院の投影がある。
「百人一首」 は謎の多い歌集で、これからどんな説がとび出してくるか楽しみである。しかし 「百人一首」 がなかったら、庶民はこれだけ古典に親しむことはなかったであろう。定家の功績は大きい。歌聖といわれる所以である。ところが折角の民族遺産が現代は、あたら宝の持ちぐされになっている。私は、 「百人一首」 ぐらいは小学生の時から暗誦させるべきだと思う。これをおぼえさせると、ふしぎに古文の文法がすらりと頭に入ってしまうのである。

「田辺聖子の小倉百人一首」  著:田辺 聖子 絵:岡田 嘉夫  ヨリ