〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
忍ぶれど 色に出にけり わが恋は  ものや思ふと 人の問ふまで
                                        (たいらの兼盛かねもり)

[口訳]
私の恋は、誰にも知られまいと、かたく心につつんでいたのだけれど、とうとう、顔色にあらわれてしまったよ。「何か物思いをしているのですか」と、人がたずねるまでに。

[鑑賞]
この歌の面白みは、多分に和歌史的興味、または的興味にかかっている。そこで少しくこの歌合の様子を記すこととしよう。
天徳4年3月30日、一ヶ月も前から女房たちによって計画準備されていた、いわゆるだいうたあわせが、主上出御、左大臣以下参列のもとに花々しく行われた。蕃数がしだいに進んで、最後の蕃、すなわち20番になると、左は忠見の「恋すてふ」の歌、右は兼盛の「忍ぶれど」の歌で、いずれ劣らぬ傑作と傑作とが合わされた。 判者の判にこう書いてある。
「小臣(左大臣実頼)奏して云う。『左右の歌ともに似て優なり。勝り劣りを定め申す能はず』と。勅して云はく『各々もっとも歎美すべし。但し猶、定め申しべし』てへれば、小臣、大納言源朝臣(高明)に譲る。納言敬窟けいくつして奏せず。この間、相互に読み揚ぐ。各、我が方の勝ちを請ふに似たり。小臣しきりに天気をうかがへど、いまだ勅判を給はず。ひそかに右方の歌を詠ぜしむ。源朝臣ひそかに語りていふ、『天気、もし右にあるか、右歌甚だし』。これによりて遂に右を以って勝となす。思ふ所あり、暫く也。但し右歌甚だ好し」。
即ちどちらがよいか、判者左大臣実頼には判定が出来ないので、大納言源高明に判をゆずったが、高明も判定することができない。そこで主上に御判をお願いしたが、主上も判を下されない。ただひそかに、右方に歌、すなわちこの兼盛の歌をくりかえし御口ずさみになったので、主上の御意この歌にありと考えて、この歌を勝ちとしたのであった。
この歌合のことが余りにも有名であった為か、『拾遺集』にも忠見の歌とこの歌とは並べてあり、百人一首にも、このように並べてあるのである。
歌としてはこの歌の「忍ぶれど色に出にけり」「物や思ふと人のとうまで」が、着想の新奇さで人を驚かしたのが、勝ちを得た原因で、つまり、歌合的効果においてすぐれていたのであるが、しかし、ややどぎつい露骨さがあり、俗臭が無いと言えない。
[作者]
平兼盛(1990)は光孝天皇の皇子是貞新王の曾孫篤行の子。父篤行も時、はじめて平の姓を賜った。
兼盛は若くして大学に入り、奉試及第し、天歴4年越前守となり、山城介・大監物を経て、天元2年駿河守に任ぜられた。任地に下る時、元輔の詠んだ歌に「老いの涙にくちむものとは」とあるのを見ると、老年であったと思われる。正歴元年歿。
和歌をよくし、三十六歌仙の一人であり、勅撰集に入る歌およそ83首。
『拾遺集』には、貫之・人麿・能宣・元輔・兼盛の順で、第五位(38首)に入っている。
『袋草紙』には兼盛が『後撰集』の撰者の中に入らないのを不審としている。
寛和元年2月紫野子日御幸には命により、歌題・和歌序を上った。
上の如く天徳4年内裡歌合に忠見の歌と合って勝った事は有名である。この歌合は撰歌合で、撰者は朝忠あさただと兼盛とであったから、この歌と忠見の歌とを組み合わせたのは、兼盛であったかもしれない。
『袋草紙』に兼盛が毎度あまりに沈思したので、清原元輔が難じて、「かくの如く案じたならば、たえることは出来まい」といったことが見え、『古今著聞集』にも、東三条院の撫子合なでしこあわせの歌、天暦の御時、月次御屏風つきなみのみびょうぶの歌を詠んだことなどが語られてある。
わが宿の 梅の立ちや見えつらむ 思ひのほかに 君が来ませる
「怪しくも 鹿の立ちどの 見えぬかな 小ぐらの山に 我や来ぬらむ」
便たよりりあらば いかで都へ つげやらむ けふ白河の 関はこえぬと」
陸奥みちのくだちが原の 黒塚くろづかに 鬼こもれりと いふはまことか」
百人一首評解」 著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ


忍び隠してはいたつもりだけれど

やはり顔に現れてしまったようだ

・・・・・わたしの恋は

わたしの恋は・・・・・

「なにかもの思いをしているのか」

・・・・・と人が問い掛けるほどまでに

隠忍深情鎖在心

無端流露在眉顰

我心無限相思苦

却被他人問于今

百人一首の世界」 著:千葉千鶴子 発行所:和泉書院 ヨリ