〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
わすらるる 身をば思はず 誓てし  人のいのちの 惜しくもあるかな
                                        ( こん)

[口訳]
忘られてゆく私のみの悲しさは、いまは少しも思いません。ただ(あれほど神かけて盟ったあなたが、神罰を受けて亡くなりはなさらないかと)、ひたすら、あなたの命が惜しく思われます。

[鑑賞]
「万葉のころの女はこうは思わない。これは支那思想をまねた偽善である。自分の悲しみを思わずに、相手の命を惜しむなど、自分を偽った偽善である」、このようなことを真淵は言っている。が、真淵という人は、何という邪慳なことをいう人であろう。
なるほど、万葉のころの女性はそうであったかも知れない。欧米の女性の多くは、今もそうであろう。しかし、それらがそうだからといって、平安朝の女性が、いや、あらゆる時代の女性が、そうでなくてはならぬという理由はあるまい。
貴族的男性横暴の時代に生まれた彼女らは、自分の感情を犠牲にすることなしに、自分の存在を保つことは出来なかったのだ。
「忘らるる身をば思はず」とは、決して、忘られる身の悲しみなぞ屁とも感じないなどという、あらけない事をいっているのではない。忘られる身の悲しさをじっと忍ぶ事によって、より高い犠牲と愛の世界に生きようというのである。
その彼女等の精一杯の思いを、偽善だなどというのは、古道的公理主義者真淵の思い上がった誤りである。それは自然の真理だけを知って、歴史の真理を知らないものである。
彼女等を危うく支えている「あきらめ」という可憐な原理をふみにじってはならぬ。「あきらめ」こそ、アジア人の特に過去の日本女性のもつ、最もふがいない、しかしふがいないが故に藻の花のように美しい、生の原理である。
思うにこの歌の美しさも、結局は「あきらめ」の美しさにあるであろう。定家のように頽唐の美しさを愛したものにとっては、この歌の美は、恐らく何人よりも高く買われたことであろう。
[作者]
右近は、藤原季縄の女。季縄すえなわは『尊卑分脈』によれば、藤原南家武智麿の子孫で、しげの子。従五位上、右近少将となった。
片野の少将とよばれて鷹匠の名人であり、勅撰歌人でもあった。この作者の「右近」の名は、父の右近少将によったものか。
七条后(後醍醐天皇の皇后)穏子に仕えた。権中納言敦忠や桃園宰相源保光との間の情話が『大和物語』に見える。
勅撰集には9首とられている。
大方の 秋の空だに わびしきに 物思ひそふる 君にもあるかな
唐衣からころも かけて頼まぬ 時ぞなき 人のつまとは 思ふものから
百人一首評解」 著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ


忘れられるわたしの身なんて

少しも惜しいとは思わない

愛の誓いを破ったあなたの身に

神罰が下って

失われるあなたのいのち

それがとても惜しまれるのよ

君今忘我我何言

海誓山盟曽対天

恐天罰君君早祈

思念至此覚心酸

百人一首の世界」 著:千葉千鶴子 発行所:和泉書院 ヨリ