〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを   雲のいづこに 月宿るらむ
                                        (きよ はらのふか)

[口訳]
みじかい夏の夜は、まだ宵のままだと思っているのに、もう明けてしまったが(これでは、西の山まで行きつくことはあるまい)一体、雲のどのへんに、月は泊まるのであろうか。

[鑑賞]
夏の短か夜が明けて、空に残っている白い月、「この月はどこに泊まるのであろう」という、この子供らしい疑問は、わざと幼稚めかした一つの技巧である。こういう技巧は、古今東西どこでも用いる一つの修辞で、美があどけなさし通ずる、超俗性・純真性をもつところから来たものであろう。
軽い疲れ、ひそやかな哀愁、その中から目ざめる、さわやかな朝の蘇生、それらを伴ったこの白い月のなんというかそけき静けさか。と同時に、われわれは、この月のしたに横たわる、平安京の、歓楽をきわめて、疲れ、眠りこけている、大いなる「夜」を感じそしてその「夜」が大きければ大きいほど、この月のかそけさが、身にしみて来ることを感じる。
もしこの歌の志向するところを、無理に明確に言えといったら、「まだ見飽きない月を残して、夜のあけるのが惜しい」というようなことになろうが、そのような重苦しい言い方をしないところがこの歌のよさである。
夏の夜明けの大気の微動にも似た、蛾の吐息のようなかそけさで、月への愛情をとらえたところがよい。かそけきものの中にある美、それを教えてくれたのは、平安朝人であることを忘れてはならぬ。
[作者]
清原氏は、『日本書紀』の撰にあたったねり親王しんのうの後裔である。
深養父は房則の子で、清少納言の父元輔はこの深養父の孫にあたる。
深養父は、延喜8年内匠允、延喜元年内蔵大允、同8年従五位になった。晩年には大原の近くにらく を建てて隠棲した。『井蛙抄』に「深養父が補陀落寺も小野也」とあり、『平家物語』の小原御幸の章にも「かの清原深養父が補陀落寺云々」とある。
家集に『深養父集』がある。三十六歌仙の中には入れられていないが、『和漢朗詠集』の江註にはこのことを非難している。勅撰集に入った歌は41首。
花散れる 水のまにまに とめくれば 山には春も なくなりにけり
冬ながら 空より花の 散り来るは 雲のあなたは 春にやあるらむ
嬉しくば 忘るる事も ありなまし つらきぞ長き かたみなりける
百人一首評解」 著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ


夏の夜はとても短い

まだ宵だと思っていた

なのにもう夜明けだ

西山に戻る間もない

月よ 一夜

どの辺りの雲を褥に

仮寝をするのだろうか

夏夜猶在未明間

己是朦朧欲曙天

暁月未及西山落

暫住天際乱雲辺

百人一首の世界」 著:千葉千鶴子 発行所:和泉書院 ヨリ