[口訳]
つぎつぎと亡くなってしまって、一体、誰をまあわたしの友としようか。(高砂の松のほかに、わたしと同じように、年をとったものはないが)高砂の松も、昔からの友ではないものを。ああ、昔の友が恋しい
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[鑑賞]
これを、老愁をなげいた歌か、又は昔の友を憶った歌かと尋ねたら、きっと世の老人達に笑われるであろう。
老愁と、追憶と、亡き人の恋しさと、それが一つ一つ別々にたずねて来るものならば、骨を噛むばかりの老いの悲しみなど、あるわけがない。それらがみんな一つになって、庭の草も、妻の着物も、器物も、茶も、空の雲も、遠い山も、みんな一つの悲しみとなって、限りもない深い海の浪のようにやって来るからこそ、老いは悲しいのだ。
「 たれをかも 知る人にせむ」と叫んでいるこの作者の周囲には、ひとり、知人が無いばかりでなく、昔を知るものは、花さえ草さえないのだ。あるなら一本の草にでも語りかけるであろう。だから彼は、悄然として「高砂の松」に呼びかけてみる。しかし、それもついにわが友でないと知ってkずおれる、彼の頂のかなしさ。
定家は、あの多感な魂に、老愁の苦さを吸いつくした人である。庭梅になげき、枯草になげき、繊月になげき、彼の老後の日記は、およそ老いのなげきに満たされている。この歌の中に、彼は自分の心の姿を見ているのかも知れない。
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[作者]
藤原興風は、藤原京家の祖麿の子で、『浜成式』の著者として知られる参議浜成の曽孫である。父は相模掾道成、
昌泰3年相模掾、宴喜2年治部少丞に任ぜられ、同14年下総大掾に任ぜられた。「院藤太」とよばれたらしい。
管弦に長じ、特に弾琴を得意とした、歌人としても知られ、寛平御時后宮歌合・同御時女御花合・亭子院歌合等の作者で、『紀師匠曲水宴歌合』にも列し居り、貞康親王が后の宮の五十賀をした時の、御屏風の歌も詠んでいる。
三十六歌仙の一人で『興風集』があり、勅撰集にはおよそ35首入っている。 |
「声たえず
なけや鶯 ひと年に ふたたびとだに 来べき春かは」 |
「深山より
おち来る水の 色見てぞ 秋は限りと 思ひ知りぬる」 |
「足曳の
山吹の花 散りにけり 井手のかはづは 今やなくらむ」 |
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「百人一首評解」
著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ |
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