[口訳]
日の光ののどかな、このようにゆったりとした春の日であるのに、どうして、せかせかと心ぜわしく、花はちるのであろうか。
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[鑑賞]
この歌には古今集的な知的技巧が無い。だから、作者の感じた詩情が、ほとんどそのままに現れている。
「久方の光のどけき 春の日」、春は眠くなると漱石は言ったが、若い平安の京のあらゆる物物象が、ことごとく眠りに誘われるかと思われるような春の日である。その中を、何に誘われるともなく、繽粉と花が散っているのだ。
けだるい目を上げて、うっとりとそれを見ている耽美的な昼間、あわい哀愁がそこはかとなく過り、美しい愉楽が、痺れるように身うちを匍う。
「落花」という言葉がひそかに持つ、狼藉、索漠などというものは、みじんも寄せつかない、満ち足りた王城の春の賛歌である。
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[作者]
紀氏は武内宿禰の子孫で名族であり、武内宿禰が木(紀)の国に生まれたので「木氏」といい、後に「紀」に改めた。
『紀氏系図』によれば、友則は武内宿禰十六世の裔本道の孫で、有友の子であり、貫之の従兄弟にあたる。
寛平9年土佐掾、同10年少内記となり、延喜4年大内記となった。古今集序には「大内記友則」とある。
『後撰集』巻15に、四十余まで官を賜らない由、時平に語っているので、不遇であったことが知られる。
延喜5年2月泉大将定国の四十賀の歌が『古今集』巻7および家集にみえ同集巻18に「筑紫に侍りける時に罷り通ひつつ碁うちける人の許に」とあるから、九州に居たことも知られる。
延喜5年4月、紀貫之等と共に『古今集』撰進の勅を受けたが、完成以前に死んだことは、同集巻16に、友則の死を悼んだ貫之・忠岑等の歌があるので知られる。『古今集』の完成は延喜13、4年の頃にまで及ぶから、明確な歿年は分らない。
是貞親王家歌合・寛平御時后宮歌合・寛平菊合の作者であり、年紀不明の『紀師匠曲水宴歌合』の作者ともなっている。
三十六歌仙の一人で『紀友則集』があり、勅撰集に入る歌はおよそ64首。 |
「君ならで
誰にか見せむ 梅の花 色をも香をも
知る人ぞ知る」 |
「梅雨に
物思ひおれば ほととぎす 夜深く鳴きて いづち行くらむ」 |
「雪ふれば
木毎に花ぞ
さきにける いづれを梅と わきて折らまし」 |
「宵のまも はかなく見ゆる
夏虫に 惑ひ勝れる
恋もするかな」 |
「蝉の声 きけば悲しな
夏衣 うすくや人の
ならむと思へば」 |
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「百人一首評解」
著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ |
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