〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
朝ぼらけ 有明の月と みるまでに 吉野の里に ふれる白雪
                                        (さかのうえの是則これのり)

[口訳]
ほのぼのと、夜の明けてゆく頃、外を見ると、有明の月の光かと思うほどに、吉野の里に白雪が降っていたわい。

[鑑賞]
古い吉野の里に宿る、それだけでも、すでにわれわれは、深く詩の世界を感じる。旅の思い、歴史への回顧、冬の夜の燈火、夜深い風の音、そしてさらに夜明け方に、月の光とまちがうばかりの白雪を見る。
これは李白の
  「牀前月光を看る 疑うらくは是れ 地上の霜かと
       頭を挙げて山月を望み 頭を底げては 故郷を思う」
とほとんど同じ詩の世界ではないか。私は冬の夜更けに、ふと戸外を見出して、真っ白な月の光を、霜や雪と見ることが多いのであるが、その時いつも、この李白の詩とこの是則の歌とを思い出すのだ。それは恐らく、これらの詩や歌が、確かな体感の上に詠まれているからであろう。
[作者]
『新撰姓氏録』 『坂上系図』によると、坂上氏の祖は、後漢の霊帝の男延王の子孫で、応神天皇の頃帰化したものらしい。
是則は田村麿の曽孫好蔭の子で、延喜8年大和権少掾、ついで大和大掾となり、少内記・大内記等をへて、延長2年従五位下に叙し加賀介に任ぜられた。
この歌を詠んだのは延喜8年大和掾の頃であったであろう。
蹴鞠に達し、延喜5年3月仁寿殿で行われた蹴鞠に、206度まで連足に蹴って落とさないで、名誉を施したことが『西宮記』に見える。
歌人としては貫之・躬恒と肩を並べるほどの存在で、延喜7年大井河御幸に供奉して歌を詠み、延喜13年亭子院歌合の作者となり、「紀師匠曲水宴」に貫之・躬恒・友則・忠岑等と詠歌した。
三十六歌仙の一人で、『坂上是則集』があり、勅撰集に入る歌はおよそ39首。
子の望城も歌人であるが、さまですぐれた歌人でもないのに『後撰集』の撰者となったのは、父のお陰だといわれた。
さほ山の ははその色は うすけれど 秋は深くも なりにけるかな
み吉野の 山の白雪 つもるらし 古里ふるさと寒く なりまさるなり
逢ふことを がらの橋の 長らへて 恋ひ渡るまに 年ぞへにける
百人一首評解」 著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ


朝ぼらけの空

有明の月の光

見紛う程に白く

吉野の里を覆い

降り積もる白雪
疑是凌晨月

冷冷放寒光

寂寂吉野里

一片白雪凉

百人一首の世界」 著:千葉千鶴子 発行所:和泉書院 ヨリ