〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
有明の つれなく見えし 別れより  暁ばかり 憂きもにはなし 
                                        (ぶの忠岑ただみね )

[口訳]
有明の月が、夜の明けるのも知らぬげに、無情に空に出ていた時、その月のように、いかにも無情に見えた女と別れたが、その別れの時から、私は、夜明けほど、つらいいやなものはないようになった。

[鑑賞]
定家等は、厭かぬ別れに泣き別れた明け方、空にそ知らぬ顔をして、無情にもかかっていた有明の月の、妖しいばかりに美しい、刺すような光を、いかにもつれなく感じているから、夜明け方ほどいやな感じのするものはないと解しているのであって、この有明の月の、美しいがし悲しい、悲しいが故にいよいよ美しい光を、あくまで余情つきないものと見て、彼らはこの歌を、きわめて高く買ったものらしい。
『童蒙抄』に「後鳥羽院の御時、『古今集』の中、おもしろき歌を、定家・家隆に御尋ねありし時、両人ながらこの歌を撰み申しけるとなむ」とあり、『顕註密勘』にも定家は 「此の詞のつづきは、およばず、艶にをかしく詠みて侍るかな。これほどの歌一よみて出でたらん、此の世の思ひ出に侍るべし」と言っており、それを裏づけるように『定家十体』では「幽玄様」の中に、この歌をとっているのである。
然るに近世以後の理論的解釈は、このような甘美な解釈を許さなくなった。女もつれなく月もつれないということになると、この有明の月に対する感情は、骨にしみる憎悪または怨恨を伴うことになるからである。
定家等は、常に浪漫的に、感情豊かに、美しく、歌を見ようとする傾向をもつものであって、新古今的世界を理解する上には、このことを知っておくことは重要であるが、特にこの歌の「有明の月」の官能的な美しさをよくよく味わってみる事は、定家的美、ひいては中世的美を理解する上に、きわめて重要であると思う。
[作者]
忠岑は壬生安綱の子である。
はじめ右衛門の府生で、泉大将定国の随身ずいしんであったが、後、どころに候し、摂津権大目となり、六位に叙せられた。
甚だ微官で、生歿ともに不明であるが、歌人としては名高く、寛平御時后宮歌合・是貞親王家歌合の作者となり、延喜7年大井河御幸にして歌や序を作った。
『古今集』の撰者の一人で、『忠岑集』があり、天慶8年には『和歌十体』という、歌学上重視すべき著述もしている。
三十六歌仙の一人で『大和物語』等に興味ある逸話が残されている。勅撰集に入る歌は凡そ81首。子のただも百人一首に入っている。
昨日見し 花の顔とて今朝見れば ねてこそ更に 色まさりけれ
もがみ川 深きにもあえず いな舟の 心軽くも 返るなるかな
百人一首評解」 著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ


有明の空に傾く細い月

つれないあなたの心のように

朝空に浮かぶ白っぽい月

つれないあなたの顔のように

心薄いあなたとの別れの時から

暁ほど憂い刻はないのだ

仰望残月挂高空

一似伊人冷若冰

自従別来孤独甚

最是暁起倍傷情

百人一首の世界」 著:千葉千鶴子 発行所:和泉書院 ヨリ