[口訳]
折るならば、あて推量に折ってもみようか。初霜が一面において、どれが花か、わからないようにしている、白菊の花おば。
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[鑑賞]
「心当てに折らばや折らむ」よいうような、一ひねりもひねった、思わせぶりな言い方をするところが、当時の主知主義者たちの、得意とした所であろう。
しかし、第三句以下に「初霜の置きなどはせる白菊の花」という、白一色の、目もさめるような情景を描き出しているところは、やはり王朝唯美主義者らしいところであり、しかも、あざやかに客観的に描写しているところには、当時の歌として、はなはだ新鮮みがあると言えるであろう。
第一流歌人の貫禄を示した、やや気取った得意げな歌である。はげしい霜の気、高い白菊の気品と香気、どこか凛としたところがあるのもよい。
定家は「白」の色に特に艶を感じたのであるから、このむせかえるばかりの白の饗宴には、胸のときめきを感じたにちがいない。 |
[作者]
凡河内の祖について、『古事記』上巻に「天津日子根命者、凡川内国造・額田部湯坐連・・・等之祖也」と記してある。
「凡」は『日本書紀』に「大河内」ともあるように、「大」の意であろうと『記伝』は言っている。
躬恒は寛平6年甲斐権少目、延喜7年丹波権大目、御厨子所候等を経て、延喜11年和泉大掾に進み、六位を授けられた。
延喜7年には大井河御幸、同16年石山御幸、同21年春日御幸に、並びに供奉した。
官吏としては微官で終わり、歿年不明である。
和歌においては貫之と並び称せられ、『古今集』撰者の一人となり、三十六歌仙の一人に加えられ『躬恒集』があり、『紀師匠曲水宴』には序を書いている。
論春秋歌合は躬恒自歌合ともいわれ、最も古い自歌会である。
かって、後醍醐天皇が躬恒を階下に召して、月を弓張というのはどういう意かとお問いになった時、直ぐに「照る月を 弓張としも
いふことは 山辺をさして いればなりけり」 と詠んで御衣を賜った等多くの説話が伝えられている。
勅撰集に入っている歌はおよそ194首。 |
「春の夜の
闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やはかくるる」 |
「夏と秋と
行きかふ空の 通ひ路は かたへ涼しき 風や吹くらむ」 |
「住の江の
松を秋風吹くからに 声うちそふる 沖つ白波」 |
「が恋は 行方もしらず
果てもなし あふを限りと 思ふばかりぞ」 |
「世をすてて 山に入る人
山にても 猶うき時は いづちゆくらむ」 |
「水の面に 生ふるさ月の
浮草の 憂き事あれや 根を絶えて来ぬ」 |
「いも安く 寝られざりけり
春の夜は 花の散るのみ 夢に見えつつ」 |
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「百人一首評解」
著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ |
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