〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
小倉山 峰のもみぢ葉 こころあらば  今ひとたびの みゆき待たなむ 
                                        (ていしんこう)

[口訳]
小倉山の峰のもみじ葉よ、お前にもし心があるならば、もう一度行幸がある筈だから、ありがたい仰せに感じて、散らずに、その時までお待ち申していてく。

[鑑賞]
悠揚せまらざる長者の風格と、皇室讃仰のまことの精神とをもった歌である。平安朝時代ほど、皇室と人民との間に美しい調和のあった時代は無いのであるが、この歌は、そうした美しさを、ゆたかに見せてくれている。しかもこの歌は、皇室尊崇が精一杯の尊崇でありつつ、媚諛のいやしさに陥らない線を守っているのである。
しかし定家がこの歌を撰んだのは、実は、小倉山の美しさを讃えた歌がほしかったのではなかろうか。小倉山荘の軒にせまる小倉山の歌が、一つほしいところだったからである。大体定家は、祝歌ような歌をあまり好まなかった。彼は美の鬼であって、儀礼的のことは得意でもなかったし、また好みもしなかった。だから、小倉山の美しさを詠んでなかったらこの歌は恐らくとられなかったであろうと思う。
[作者]
貞信公は藤原忠平(880〜949)の謚である。関白基経の四男。母は仁明天皇の皇子人康親王の女。時平の同母弟である。
右大臣・左大臣を経て、延長8年摂政、承平6年太政大臣、天慶4年には関白となり、天暦3年薨。享年70才。
幼時から聡明の聞えがあり、性寛弘。摂政12年、関白9年のあいだ政治の実権を握り、その子孫がひとり栄えることになった。小一条太政大臣とよばれた。兄時平とちがって菅原道真とも親しく、大宰府に左遷された後も音信を絶たなかった。
その歌で勅撰集に入るものは12首
撫子は いづれともなく 匂へども 後れてさくは 哀れなりけり
遅くとく 終に咲きぬる 梅の花 だが植ゑおきし 種にあるらむ
百人一首評解」 著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ


小倉山の

峰のもみじ葉よ

御身に心があるならば

今一度の

天皇の行幸に日まで

どうぞ散らないで

待って欲しい。

小倉山上秀峰高

紅葉如花無限嬌

多情紅葉如有意

其待御幸于来朝

百人一首の世界」 著:千葉千鶴子 発行所:和泉書院 ヨリ