〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
名にし負はば 逢坂山の さねがづら  人に知られで くるよしもがな 
                                        (さんじょう大臣だいじん)

[口訳]
坂山のかづら」といって、逢って寝るという名をもっているならば、そのしるしとして、そのさねかずらをように、人に分らないようにてだてがあってくれればようなあ。

[鑑賞]
影樹は、女のもとへ「さねかずら」と供に贈った歌であろうといっているが、恐らくその通りであろう。何も物が無いのに「名にしおはばあふ坂のさねかづら」などと、言ってやろうとは思われないからである。そうだとすると、これはいかにも優しい、風雅な、しかも非常に巧みな歌となる。「これは逢坂山の です。このかずらのように、ために、人知れずことはできませんか」というような交渉を、かわいい緑の葉のさねかずらにさせることになるからである。懸詞や縁語を自由自在に使った、柔軟すぎるほど柔軟な姿態は、たとえば、そどけなげな貴公子の美しい指貫姿さしぬきすがたである。袖には薫物たきものの香り、空にはかすかな昼の月、夢のような返事の来るのを待っている男の姿が想われる。
[作者]
藤原定方(873〜932)は、勧修寺かんしゅうじの祖、内大臣高藤の二男で、母は宮道弥益の侍女三位引子。兄は泉大将定国である。
延喜9年参議、延長2年右大臣、承平2年ほう薨。60才。
家が三条にあったので三条右大臣とよんだ。その子に朝忠あさただがあり、女子仁善子は醍醐天皇の女御で、三条御息所といわれた。
家集に『三条右大臣集』があり、勅撰集に入った歌は16首。
昨日見し 花の顔とて今朝見れば ねてこそ更に 色まさりけれ
もがみ川 深きにもあえず いな舟の 心軽くも 返るなるかな
百人一首評解」 著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ


その名にちなめば

逢って 寝る とや

逢坂山のさねかづら

蔓を手繰って行くすべを

人に知られず逢うすべを

山名逢坂意相逢

草日双栖美且青

但愿能趁人未覚

去往君処叙深情

百人一首の世界」 著:千葉千鶴子 発行所:和泉書院 ヨリ