〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
このたびは 幣もとりあへず 手向山  紅葉の錦 神のまにまに 
                                        (かん )

[口訳]
この度の旅は、あまりの紅葉の美しさに、恥ずかしくて、ぬさを捧げることも出来ませぬ。どうぞ、この向山むけやまの紅葉のにしきを、私の手向けの幣として、神の御心のままにお受け取り下さいませ

[鑑賞]
この宮瀧御幸の途中で、同じ作者の作った漢詩に次のようなものがある
満山紅葉破心機
  況過浮雲足下飛
   寒樹不知何処去
     雨中衣錦故郷帰
至るところで「満山の紅葉」を賞し「錦」の美しさに感嘆したこの行であったことを知れば、この歌の詠まれた雰囲気がどんなものであったか、およそ分るであろう。そして、満山の錦の前に立って感動している御行供奉の一行の中から、「とても貧弱な幣はさし上げられませぬ」というこの歌が詠まれたことも、かなり自然に分ると思う。
しかし、現代の人にどうしても分らないのは、紅葉の美しさをたたえようとするこの歌が、なぜ率直に「ああ、すてきに美しい」と叫ばないで、幣がどのこうのと、廻りくどい事を言っているのかであろう。
これは漢詩の影響から逃げ切れないでいる当時の歌の悲しさではあるまいか。「白髪三千丈、縁愁似箇長」とだけ言っていないで「不知明鏡裏、何処得秋霜」と言わないではいられない、漢詩の多言性をまねようとしたものではなかろうか。
『定家十体』にはこの歌を「長高様たけたかよう」としている。満山錦繍まんざんきんしゅうの景をよらえた壮麗そうれいな歌がらを、長高たけたかとしたものと思われる
[作者]
菅家は菅原道真(845〜903)である。
『捨穂抄』に「菅家と申すことは、菅原氏の中に大臣に任じ、名誉すぐれ給へれば、その徳を称美して、推出して、菅家とも菅丞相かんしょうじょうとも申すなり」とある。
道真は文章もんじょう博士菅原清公の孫で、参議是善の子。幼名をといった。対策及第して文章博士となり、宇多天皇の御信任を得、累進して昌泰2年大臣となった。
然るに左大臣藤原時平の讒言にあい、延喜元年太宰権師だざいごんのそつに左遷されて大宰府にうつり、延喜3年その地に薨じた。59才。後神に祭られて天満天神といわれた。
詩においては天才的で、11才にして「月夜見梅花」と題する詩を作った。その詩格は白楽天の体に近いといわれ、『菅家文草』12巻『菅家後草』1巻はその詩文集である。また『三代実録』40巻の編纂にあずかり、『類聚国史』2百巻を編した。『新撰万葉集』もその著といわれる。
和歌においても秀で、勅撰集に入るものおよそ34首。
秋風の 吹上ふきあげにたてる 白菊は 花かあらぬか浪のよするか
足曳あしびき彼方かなたこなたに 道はあれど 都へいざといふ 人のなき
山わかれ とび行く雲の 帰り来る かげ見るときは なほ頼まれぬ
「海ならず たたへる水の そこまでも 清き心は 月ぞ照らさむ」
百人一首評解」 著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ


この度の慌しい旅

幣の用意も出来ないまま

来てしまいました手向山

峠の紅葉を錦織の幣に代えて

取り敢えずは捧げます

神よ御心のままにお納めを・・・・・・

今朝遠旅去天辺

未帯路神受祭銭

満山紅葉美如錦

即做厚礼献神前

百人一首の世界」 著:千葉千鶴子 発行所:和泉書院 ヨリ