〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ  わが身一つの 秋にはあらねど 
                                        (おおえのさと)

[口訳]
月を見ると、わたしは、いろいろと限りもなく物が悲しく感じられる。何も、わたし一人のために来た秋ではないけれど、そのような気さえして。 。

[鑑賞]
「月見ればちぢに物こそ悲しけれ」。これは、月に対するもっとも正直な人類の感じである。
飄々と天にかかっている月が、どうしてかくまでもわれわれを悲しましめ、われわれの心の、一つ一つの悲しみの襞を、覗きこもうとするのであろうか。
まだ若い平安京の感覚が、すでに蒼然とそれをとらえているのである。しかも、それが未だ若い感覚であるだけに老い疲れた王朝末期のそれのように重苦しく心にもたれないで、さらりとしているところがよい。
次に「わが身ひとつの秋にはあらねど」において、作者は天下の秋を感じ、さらに、己が魂の孤独を感じている。逆に言えば、山の獣のように、真に孤独を感じた心のみが、天下の秋を感じ、月に対して千々の悲しみを感じ得たのだとも言えるであろう。
『古今集』のころの歌は、すべて漢詩の強い影響のもとに詠まれているのであるが、この作者は漢学者でもあり、特にこの歌には、その影響がいちじるしい。
「月」に「わが身」を対し、「ちぢ」に「一つ」を対しているなど、明らかに漢詩的の構成である。
白楽天の
   「燕子桜中霜月色、秋来只為一人長」
によったと言われているが、なるほどこの歌の「月」には、高く小さい大陸の月の、無限の視野に広がりゆく悲しみがある。
[作者]
大江音人おとひとの子。音人は『紹運録』には平城天皇の皇子阿呆親王の子で、在原行平の長兄となっているが、実は、音人の母中臣氏が、阿呆新王の侍女で、新王の子をはらんで後、大江本主もとぬしに嫁いだのであろう(大日本史)という。
音人は著名の漢学者で、勅により『弘帝範』三巻、『群籍要覧』四十巻を撰し、また『貞観格式』の選定のもあずかったほどであるが、千里もまた大学の学生から出た漢学者である。延喜元年3月中務少丞なかつかさしょうじょう、同3年3月兵部ひょうぶ大丞だいじょうに任ぜられた。
和歌にもすぐれ、勅撰集に入る歌は25首。『句題和歌』は宇多天皇の命により、寛平6年4月25日に奉ったもので、古い漢詩句を題として詠んだ家集のようなもので、書陵部蔵しょりょうぶぞうのものは「大江千里集」となっている。弟の千古ちふるも勅撰歌人である。
鶯の 谷より出づる 声なくば 春来ることを 誰か知らまし
植ゑし時 花待ちどほに ありし菊 移ろふ秋に あはむとや見し
照りもせず 曇りもはてぬ 春の夜の 朧月夜に しくものぞなき
百人一首評解」 著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ




眺めていれば

千々に物か悲し

わが身一つの

秋ではないが

わが身一つに

訪れたような

       秋

仰望名月照四方

心頭処処尽憂傷

非縁己因秋来冷

只因秋来天下涼

百人一首の世界」 著:千葉千鶴子 発行所:和泉書院 ヨリ