〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
いま来むと 言ひしばかりに 長月の  有明の月を 待ちいでつるかな 
                                        (せいほう)

[口訳]
すぐにまた来ようと言ったばかりに、この九月の長い夜を、いまかいまかと待ちに待っているうちに、とうとう、待ちもしない有明の月が(それを待ってでもいたように)出てきてしまったよ。

[鑑賞]
このような歌は、作者は男であっても、女の立場として詠んだ歌と解すべきである。さてこの歌に対する顕昭の解と定家の解とを比べてみると、歌に対する定家---ひいては新古今集時代の人の好みが、かなりはっきりわかるように思われる。
顕昭は、宵から夜ふけまで待っていたが、待つ人は来ないで有明の月が出たと解しているのに対し、定家は、幾月も幾月も待ったが来ず、しだいに秋もふけ、秋も長月の有明の月とまったが、まだ来ないというように見た。つまり旅にでも出て、杳として音のない人を待っている歌と解したのであって、同じ歌を、非常に感情深く、浪漫的に、又は物語的に、見る傾きがあったことがわかる。特に定家は、夜深く出た月の官能的な光に、はなはだしく美を感じ、そのような歌を多く作っているのであるから、この歌の、幾月も待ちに待った人の前へ、空しく出た有明の月の悲しい光には、物語の一場面でも見るような、限りなき感情の深さを感じたにちがいない。
『定家十体』中の幽玄様にこの歌を入れてある理由も、はっきりわかるように思われる。
歌の解釈としては顕昭の方が正しいのであるが、その正しい解釈をまげてまでも、感情深く、余情あるように見ようとするところに、俊成・定家、又は新古今時代の一般歌人等の、感情過多とでも言うべき一つの傾向がうかがわれるように思う。
この意味においてこの歌は、新古今時代の歌風、特に幽玄の歌風を解する上に、かなり役立つように思われる。
[作者]
僧正遍昭の子。俗名は良峯玄利よしみねはるとし。貞観・寛平・延喜の人。
出家して林院りんいんに住み、寛平8年雲林院行幸のとき権律師に任ぜられ、後、石上いそのかみ良因院いんりょういんに住んだ。
昌秦元年10月の宇多天皇の宮滝みやだきこうの際には、特に上皇の御召しにより、良因朝臣と名のって、笠をぬぎ鞭をあげて前駆した。帰途の途中から素性が別れるとき、今日からは和歌の興が衰えようと言って、一同が別れを惜しんだ。
延喜6年2月、同9年10月には、勅命により御屏風を書いて禄を賜った。
和歌をよくし、三十六歌撰の一人に数えられ、『素性集』があり、勅撰集には65首ほど入っている。
見渡せば 柳桜やなぎさくらをこきまぜて 実やこぞ春の にしきなりける
いざけふは 春の山べに まじりなむ 暮れなばなげの 花のかげかは
いづくにか 世をばいとはむ 心こそ 野にも山にも 惑ふべらなれ
「惜しめども とまらぬ春も あるものを いはぬにきたる 夏衣なつごろもかな)」
「底そこひなき ふちやは騒ぐ 山川の 浅き瀬にこそ 仇波あだなみは立て」
百人一首評解」 著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ


今行くよとあなたは言った

その言葉を信じたばかりに

長月九月の夜長の暁方まで

ずうっとずうっと待ち続け

春の頃よりずうっと待って

逢えたのはあなたではなく

秋冷の空に浮かぶ有明の月
即将此処来

曽是君言説

久等却不至

候見暁空月

百人一首の世界」 著:千葉千鶴子 発行所:和泉書院 ヨリ