〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
わびぬれば 今はたおなじ 難波なる  身をつくしても 逢はむとぞ思ふ 
                                        (元良親王もとよししんのう)

[口訳]
このようにつらい目にあって、思いわびて暮らしておりますからには、今も身を捨ててしまったと同じことです。いっそやぶれかぶれに、難波の「みおつくし」という言葉ではありませんが、身をつくしても(捨てても)お逢いしたいと思います。

[鑑賞]
「わびぬれば今はた同じ」と、絶望的・自棄的に投げつけたような言葉、その絶望的自棄的なものの中から「みをつくしても逢はんとぞ思ふ」と、物狂おしく決意して立ちあがった言葉、情熱的な若い皇子の、艶な物狂おしい乱れ姿が、はっきり見えるばかりである。あきらめるかあきらめないかなどという位層のものではなくて、生か死かの位層のものである。火の中に身を焼こうとする、夏の蛾のはげしい情熱、恋に狂うた歌舞伎の世界の男女、いずれにしても、この歌の美は、頽唐の世界のただれた情熱の美でなければならない。天子の思い人に死をかけて恋をする、そしてその恋の歌を勅撰集に麗々しく載せる、かってこの国に、このような自由な、唯美主義の時代があったことを、ほほえましく思うのである。
[作者]
元良親王(890〜943)は陽成天皇の第一皇子で、母は主殿頭とのものかみ 藤原遠道の女。三品兵部卿にまで進まれ、天慶6年7月急逝された。54才。
和歌をよくし、『元良親王御集』があり、勅撰集に19首入っている。
『井蛙抄』に後鳥羽院は常々、 元良親王は殊勝の歌よみなりと仰せられたと記してある。又、色好みの皇子として有名であり、『元良親王御集』に「陽成院の一宮もとよしのみこ、いみじき色ごのみにおはしければ、世にある女のよしと聞ゆるには、あふにもあはぬにも、文やり歌よみつつやり給ふ」とあり、京極の御息所にも「まだ亭子院ていじのいんにおはしける時にけさうし給うて」とあって、御集に、同御息所と贈答した歌が多くある。
『大和物語』にはこの親王に関する説話が多くあり『徒然草』には、この親王の元日に奏賀する声がはなはなみごとで、大極殿から鳥羽の作り道まで聞えたと記してある。
やと 待つ夕暮れと 今はとて 帰るあしたと 何れ勝れる
逢ふことは 遠山鳥とおやまどり狩衣かりごろも きてはかひなき ねをのみぞなく
朝まだき 起きてぞ見つる 梅の花 夜のまの風の 後めたさに
百人一首評解」 著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ


あなたとの噂がたった

それがこんなにも辛いとは

今はもうどうなろうと同じこと

難波の流れに立つ澪標のように

身を尽くしても逢いたい

逢おうと思っている

もはや人目なんて恐れまい
寂寞辛酸度此生

至今仍是苦煩中

寧赴難波江中死


也愿与君相聚逢

百人一首の世界」 著:千葉千鶴子 発行所:和泉書院 ヨリ