[口訳]
難波潟に生えている芦の、あの短い節と節との間のような、ほんのわずかな短い間さえ、逢わないで、この世を過ごせとおっしゃるのですか。
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[鑑賞]
平安朝ころの人々は、「難波潟」「芦」などという語にたいして、特別の美を感じていたらしく、実に多く歌などに用いている。
山国の京都から着て見るとき、その、海につづいたうち開けた平明な景色は、強く彼らの心を打ったのであろう。
自由、はてしなき思い、海の悲しみ、淡い旅情、目路の限りつづく芦原のながめなど、京都にないものがそこにはあったからである。
「心あらむ 人に見せばや 津の国の 難波あたりの 春のけしきを」(能因)
「津の国の 難波の春は 夢なれや 芦の彼はに 風わたるなり」(西行)
などが、このような名歌でありえたのも、難波が一つの美の聖地であったからであろうか。
さてこの歌は、このような詩語としての「難波」「芦」をたくみに駆使して、逢わぬ恋の恨みを歌ったものであるが、この恨める肢体にただよい悶えているものの美しさは、いやしくも歌の姿の美を解し得るものにとって、実に何とも言えない、妖しいばかりの美しさであろう。
「難波潟」と、ゆったりとよみ出した初句を、東野州も幽斉も真淵もほめて居るが、「みしかきあしのふしのまも」と「し」の音を重ねて、芦の葉ずれの音のように官能をせせぐるあたり、「あはでこの世を過してよとや」と一気に怨情をのべているあらり、技巧的にも巧みと言わなければならぬ。
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[作者]
藤原継蔭の女。はじめ宇多天皇の七条后温子に仕えたが、その頃父が伊勢守(仁和元〜寛平3)だったので、「伊勢」とよんだのであろう。ついで宇多天皇の寵愛を受けて皇子を生んだので、「伊勢の御」「伊勢の御息所」とよばれた。
皇子の名は不明で8才で亡くなられた。
承平4年に皇后温子五十賀、同7年に陽成院七十賀に、屏風歌を詠んで奉った。
『紹運録』『歌撰伝』によれば、宇多天皇の皇子敦慶親王の女に歌人「中務」(三十六歌撰も一)があり「母伊勢」としてあるから、同親王とも関係があったわけである。
歌人として貫之と並び称せられたことは、『源氏物語』桐壺巻に「長恨歌の絵、亭子院のかかせ給ひて、伊勢・貫之によませ給へる大和言の葉おも」とあるので知られ、『後撰集」に貫之についで第二位(69首)を占めていることによっても知られる。
『袋草紙』上巻に、能因が兼房の車の後に乗って行き、二条東洞院でにわかに下車して歩行したので、兼房が驚いて尋ねると、「伊勢の御の家の跡である。前裁の結松がまだ残っている。どうして乗ったままで通られよう」と答えたという話は有名である。
三十六撰歌の一人で『伊勢集』があり、勅撰集には『古今集』以下、およそ180首ほど入っている。 |
「春霞
たつを見すてて ゆく雁は 花なき里に 住みやならへる」 |
「あひにあひて
物思ふ頃の わが袖に 宿る月さへ ぬるる顔なる」 |
「更科や
姨捨山の
有明の つきずも物を 思ふころかな」 |
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「百人一首評解」
著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ |
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