〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
住之江の 岸に寄る波 よるさへや  夢の通ひ路 人目よくらむ
                                        (藤原ふじわらの敏行としゆきのそん)
[口訳]
住の江の岸による浪の、そのよるという言葉ではないが、私は、昼ばかりでなく夜まで、どうして、夢の中の通り路で、人目をさけるのであろうか。(まことに情けないことだ)。
[鑑賞]
「すみの江の岸による浪」は、世間を恐れて行きつもどりつする、弱いためらいがちな心の象徴であるが、このような美しい言葉のゆらいでいる薄明の意識の中から「夜」という言葉が、美しくもまたなつかしい詩の言葉として、はっきりと意識の中へ登場してくるニュアンス、そして「夢の中でさえ、どうして私の心は、このようにびくびくしているのでしょう」と歎く、その抒情の線のあえかな美しさ、和歌は三十一音で構成した一つの彫像であり、その彫像のもつ美しい悩める姿に、ひとえに妖艶の美はかかっているのであるが,平安朝のすぐれた歌人たちは、そういうことを意識して作歌していたのではないかと思われ、とくに定家という人は、明らかにそういう見方で歌を見ている一人であったのである。
彼らがうるさいほど口にしている「すがた」という言葉を、現代の人々は、簡単に「歌の韻律」という言葉で代用されているようだけれど、この代用は、着物の代用に簡単服を用いるほどのお粗末さである。
「すがた」は「すがた」であって決して単なる「韻律」ではない。彫像の肢体をもつ、やわらかさ、なめらかさ、うねり、におい、羞らい、夢、情欲、愉楽、媚び、反抗等々、それらすべての総合として、そこに歌の「すがた」があるのである。
「すみの江の」の清明な海潮のなげきのような思い、「よる浪よるさへや」の夕やみの浜辺のようなすべらかな哀愁、「夢の通ひぢ人目よくらむ」のなよなよとくずれおれる秋草のようななげき、悲しい恋をきざんだこの彫像のすがたに、われわれは、王朝美のすぐれた結晶を見るのである。
[作者]
藤原敏行はわの使藤原富士麿の子、母は紀名きのなとらの女。
貞観8年少内記に任ぜられてから、大内だいない、大宰大弐等を経て、寛平7年蔵人頭くろうどのとうとなり、従四位、右兵衛督うひょうえのかみにまで進んだ。その歿年について『古今集目録』に「延喜7年卒。家伝伝、昌泰4年卒」とある。
敏行の死を悼んだ紀友則の歌が『古今集』巻16にあるので、友則の死以前ということは分るが、しかし友則の歿年が不明であるから、何れとも決し難い。
和歌にすぐれ、勅撰集には『古今集」19首をはじめ、合計29首ほど入って居り『敏行朝臣集』もある。
また、書道にも秀で、村上天皇が小野道風に古今の妙筆を問われた時、道風は、空海と敏行とをお答えしたと『江談抄』に見える。
「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる」
「白露の 色は一つを いかにして 秋の木の葉を ちぢにそむらむ」
「我が恋の 数を数へば 天の原 くもりふたがり 降る雨のごと」
「忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪ふみわけて 君を見むとは」
百人一首評解」 著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ


住ノ江の

岸に寄る波夜の間も

打ち寄せ返すわが思い

昼はもとより夜でさえ

逢瀬の夢の通い路に

なぜに人目を避けるのか
江涛拍岸似余情

自朝至夜不肯停

夢里往来荒野道

為逃人目暗中行

百人一首の世界」 著:千葉千鶴子 発行所:和泉書院 ヨリ