〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
ちはやぶる 神代もきかず 竜田川  からくれなゐに 水くくるとは
                                        (ありわらの業平なりひら朝臣のあそん)
[口訳]
この竜田川に、一面に紅葉が流れているのを見ると、まるで、水を紅いくくり染めにしたように見える。このようなことは、ふしぎなことの多い神代にも聞いたことがない。(まあ、何というめずらしい景色だろう)
[鑑賞]
業平の多くの傑作の中からこの歌をとたのは、目のさめるような紅いもみじの屏風歌を配して、小倉山荘の障子面をにぎやかにしようとでもしたのではなかろうか。思うに、この歌のような課題に対しては、さすがの業平も、かなり詠みにくかったにちがいないと思われる。しかし、紅葉の絵に対して「ちはやぶる神代もきかず」と、奇想天外なところから読み下して来るところ、やはり奔放な情熱詩人だけのことはある。
屏風歌は南画の賛に似ているけれど、かれが清高奇峭な禅的空気をみちびき入れようとするのに対し、これはあくまで、王朝貴族的な優艶高雅な空気を盛り上げなければならない。美しい帳やなまめかしい脂粉の香と、絡みあうべき芸術だからである。
しかし業平のこの歌は、 そういう脂粉的なものへの媚態を捨てて、わざとゴツゴツした線を出し、危ういところで不調和の調和を試みている。「ちはやぶる神代もきかず」という、どぎつい発送を用いたり、「からくれなゐに水くくるとは」と、カ行を多くして表情をこわばらせたりしているとこどなど、気の小さい歌人のよくし得ることではなさそうである。
[作者]
在原業平(825〜880)は平城天皇の皇子阿呆親王の第五子、母は桓武天皇の皇女伊登内親王で、行平の異母弟である。天長3年、兄等と共に在原の姓を賜った。世に「在五中将ざいごちゅうじょう」又は「在中将」とよんだのは、在原氏の五男で中将になったからである。貞観7年のかみ、元慶元年左近権中将、同3年蔵人頭くろうどのとう等に歴任し、元慶4年5月28日卒した。年56才。
容姿秀麗で典型的な貴公子であったが、兄の行平が経済や才学にすぐれたのとはちがって、詩人的で多感放縦であり、和歌をよくし、六歌仙、三十六歌仙に数えられた。
勅撰集にはいるものおよそ87首。現存『業平集』には短歌48首(類縦本)あるが、『古今集』や『伊勢物語』に材料を給したげん業平集があったのではないかといわれる。
その歌は、『古今集』序に、「心あまりて、詞たらず、しぼめる花の色なくして、匂ひ残れる如し」とあるように、情熱的で、詞句に拘束されず、自由奔放である。
「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」
「唐衣 きつつなれにし 妻しあれば 遥々来ぬる 旅をしぞ思ふ」
「名にしおはば いざこと言とはむ 都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」
「月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身一つは もとの身にして」
「忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪ふみわけて 君を見むとは」
百人一首評解」 著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ


不思議なことの多かった昔

神代にも聞かなかった事

立田川に紅葉が散り敷き

鮮やかな紅に川面を彩り

流水を絞染めにしたとは
神代霊迹処処生

遠古未見此奇情

浩浩龍田川里水

尽被紅葉染成紅

百人一首の世界」 著:千葉千鶴子 発行所:和泉書院 ヨリ