〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
たち別れ いなばの山の 峰に生ふる   まつとし聞かば いま帰り来む
                                        (ちゅうごんゆきひら)
[口訳]
そいまこのように別れて行っても、行く先の、因幡の国の因幡山の峯に生えている、「まつ」という名のように、あなたが待っていると聞いたならば、すぐに帰ってまいりましょう。
[鑑賞]
これは斉衡さいこう2年正月に因幡守いなばのかみに任ぜられて、京から出発しようとしたときの歌である。
行平は仁寿3年に備中権介に介ぜられているから、国司の経験はあるのだが、しかし因幡は遠い辺国であるから、たとい38歳男盛りであったとはいい、この赴任は相当に心細かったにちがいない。。この歌の全体に、心細そうなひびきが流れているのはその為であろうか。
「いなばの山の峯におふる松」と、別れの心とまるで関係の無さそうなことを序として詠んできて、不意に「待つとしきかば」と急転しているところ、初めから別れの心を詠んだ歌よりも、一段とやるせない悲しさが現れている。「すぐに帰って来よう」と、不可能そうなことを言っているのも、哀切な別れの歌としては、かえって適切である。彼の心には、恐らく、寒々とした一月の因幡の山の松が悲しげに映っていたであろう。
藤原俊成は『古来風体抄』で「此歌あまりにぞくさり過ぎたれど、姿をかしきなり」といって、懸詞や縁語を用いすぎたことを指摘しながらも、この歌の哀韻にみちた心細げな姿をほめているが、妥当な評というべきであろう。
思えば、国司となって地方へ下るということは、ただに平安貴族を経済的に救ったばかりでなく、どれだけその生活全体を多彩にし、その詩をはぐくんでくらてことか知れない。
青い空、白い雲の下を、馬に乗り、駄馬をつらね、従者を従え、家族まで引き連れて、任国へおもむく一行の、小さくつづいた姿を想う時、そしてその馬上にゆられてゆく人が、この歌のような繊細な歌を詠む詩人であることを思う時、この歌までもが、思いなしか懐かしいような気がする。
[作者]
在原行平(818〜893)は平城へいぜい天皇の皇子親王の第二子で、業平のけいである。「在民部卿ざいみんぶきょう」または「ざい中納言」とよばれた。天長3年兄弟とともに在原の姓を賜った。承和7年蔵人に補せられ、斉衡2年正月15日に因幡守となり、貞観15年太宰権師、元慶6年中納言に任ぜられ、民部卿を兼ね、寛平5年76才で薨じた。
経済の才があって治績に見るべきものがあり、学を好み、奨学院を創設して子弟の教育にあてた。また和歌をよくし、『古今集』真名序に
「雖風流如野宰相(篁)、軽情如在納言(行平)」
とその風流の才を讃えて居り、現存する最古の歌合「在民部卿家歌合」は仁和元年に、彼の家で催されたものでる。
また事にふれて須磨に流されたとの伝説があり,『古今集』巻18にそのことと見るべき歌があり、謡曲や御伽草子の「松風村雨」に取材されて著名である。勅撰集に入った歌は11首。
「わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩垂れつつ わぶと答へよ」
「幾度か 同じ寝覚めに慣れぬらむ 苫屋にかかる 須磨のうら浪」
百人一首評解」 著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ


あなたと別れ

わたしは因幡へ行きます

稲葉山の峰に生えている松

その「松」のように

「待つ」と聞いたならば

直ちにわたしは帰ってくるでしょう
別君遠赴因幡国

心似稲葉山頂松

天辺若聞君相待

自当速速就帰程

百人一首の世界」 著:千葉千鶴子 発行所:和泉書院 ヨリ