〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
みちのくの しのぶもぢずり たれ故に  乱れそめにし われならなくに
                                        (わらの大臣だいじん)
[口訳]
私の心は、しのぶもみじ摺りの乱れ模様ではないが、忍ぶ恋のために、乱れ乱れております。が、誰のために乱れ初めた私でもありませぬ。みな、あなたの爲でありますものを。
[鑑賞]
「みちのくの」を「しのぶ」の枕詞として「しのぶもぢずり」を言い起こしたあたり、よく味わってみれば、妙味つきないものがある。そして、「誰故に」と鋭く切りこんでおいて、一転して「我ならなくに」と身をくねらせたあたりも巧手といえるであろう。百人一首には、序詞を使った歌を多くとっているが、序詞のそれとない描写や叙述が、ほのかな象徴となっていつところを、定家は愛したのではなかろうか。
しのぶもみ摺りの乱れ模様、まことに、こてほど平安貴族の、女性的な、はにかみがちな、それでいて上品な、恋の心の乱れを、よく象徴してくれるものはないであろう。
「みちぢずり」 と、オ段を多く並べてなめらかに読み下し、「我ならなくに」とわざともつれるような言葉で結んでいるところも、よくこの歌の乱れ心と照応しているといえる。
[作者]
河原左大臣は源とおる(822〜895)をこう呼んだもの。河原院かわらのいんに住んで官が左大臣であったからである。
河原院は六条坊門の南、での小路こうじの東八町にあった。融は嵯峨天皇の第十二皇子で、母は大原また。仁明天皇のゆうとなった。
承和6年に侍従となり、嘉祥3年に従三位に叙せられてから、累進して左大臣従一位に至り、寛平7年に74歳で薨じた。
陽成天皇が皇位を退かれた時、皇位を望んで藤原基経にとどめられたことは有名である。
豪奢を好み、前記の六条坊門に豪華をきわめた河原院を造り、その池には、毎月難波から海水20こくを運び、毎月塩を煮て塩釜の景をまねた。
別荘を宇治に営んだが、後にそれを寺としたのが平等院である。また、嵯峨に山荘を営みせいかんととんだ。いまの釈迦堂がその跡である。
和歌は『古今集』『後撰集』に、各二首ずつ入っているだけである。
「主ぬしやたれ とへど白玉しらたま いはなくに さらばなべてや あわれと思はむ」
「照る月を まさの綱に よりかけて あかず別るる 人をつながむ」
百人一首評解」 著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ


陸奥 東北 信夫群

忍ぶ草の綟り摺り

乱れ染めたり布の柄

乱れ初めたり我が心

誰の故にかあなた故

忍ぶ思いは狂おしく

乱れ乱れる我が思い
奥州花布色粉粉

花色凌乱此我心

我心為誰乱如許

除君之外更無人

百人一首の世界」 著:千葉千鶴子 発行所:和泉書院 ヨリ