〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ  をとめの姿 しばしとどめむ
                                        (そうじょうへんじょう)
[口訳]
空を吹く風よ、雲の中の通路を、どうか吹きとじてくれよ。この美しい天女の姿を、もうしばらく、ここにとどめておいて、もっと舞を見たいと思うから。
[鑑賞]
まだ古今的な歌の世界にとじこめられない、自由奔放な感情がこの歌の根幹に流れているから、すこやかで、のびのびとして、屈託がない。どこか依俗的な美しい舞と、優雅な伝説と、典麗な朝議と、そういうものをひとつにして、やや冗談めかして、軽々と歌い上げている手腕はさすがである。
『古今集』に序者が「歌のさまは得たれども、まことすくなし」などと、すこしけちをつけているのは、自分みずからの網に入りきらない溌剌たる魚を、もてあましているのかも知れない。典麗優雅な幻想美、朗詠でも歌がるたでも、この歌が人気をあつめているのは、その点であろうか。
[作者]
遍昭(816〜890)は桓武天皇の孫で、安世の第八子。俗名を良峯宗貞よしみねむねさだといった(安世は延暦21年に姓を良峯と賜った)。仁明天皇に仕えて寵を得、蔵人頭に補せられたが、嘉祥3年3月天皇の崩御にあい、哀慕のあまり出家し(35歳)、叡山にのぼって名を遍昭と改めた。遍昭はまた遍照と書いた本もある。
出家の時 。
「たらちねは かかれとてしも うば玉の わが黒髪を なでずやありけむ」
とよみ、諒闇が明けて、人々が喪服を脱ぎ位を賜りなどした時、
「みな人は 花の衣に なりぬなり 苔の衣よ かはきだにせよ」
とよんだ。
貞観中雲林院をたまわって住み、のち花山に元慶寺を創設して座主となった。
仁和元年10月僧正に任じ、同年12月仁寿殿に七十賀を賜った。
寛平2年正月寂。年75。
在俗時は良少将とよばれ、出家後は花山僧正とよばれた。在俗の時の子に、由性・素性の二人がある。
和歌にすぐれ、六歌仙および三十六歌仙の一に数えられる。
『古今集』序に「僧正遍昭は、歌のさまは得たれどもまことすくなし。たとへば絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすが如し」と評しているように、歌に巧みで風流洒脱がある。
勅撰集に36首ほど入り、家集に『遍昭集』があるが、大部分は勅撰集の歌である。
「名にめでて 折れるばかりぞ 女郎花 われ落ちにきと 人に語るな」
「里は荒れて ひとはふりにし 宿なれや 庭もまがきも 秋の野らなる」
「秋山の 嵐の声を きく時は 木の葉ならねど 物ぞ悲しき」
百人一首評解」 著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ


空を駆け巡る風よ

雲間の通路を吹き閉ざしておくれ

天女の姿そのままの舞姫を

今しばらくの間でいいから

ここに留めておきたいのだ
大風浩浩起長天

雲路帰途尽鎖巌

天女翩翩帰不得

暫留舞態在人間

百人一首の世界」 著:千葉千鶴子 発行所:和泉書院 ヨリ