〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
これやこの 行くも帰るも わかれては  しるもしらぬも 逢う坂の関
                                        (せみ まる)
[口訳]
こうして見ていると、都から諸国へ行く人も、諸国から都へ帰る人も、知っている人も、知らない人も、日毎に、ここで別れたり逢ったりしているが、なるほど、これこそまあ、ほんとに逢坂の関であるよ。
[鑑賞]
遠い旅へ出てゆく者、遠い旅から、はるばると疲れた身をはこんで還って来る者、知る者、知らない者、そういう人たちが、日毎に逢ったり別れたりしている逢坂の関である。
日毎日毎、それを見ている世捨て人の諦観の眼には、おそらく、人生の遭逢流転のすがたがうつったことであろう。
「行くも」「帰るも」「しるも」「しらぬも」と、同じ調子をくりかえしているのも、何となく、同じ離合や集散をくりかえしている、この世の姿の表現のように思われる。平安朝びとの悲しみというよりは、むしろ、永劫の人間の悲しみを、この山の一角から切り取って、秋風のような韻律にのせた歌とでもいえようか。
空には雲が白くかかり、遠くつづいている道には、点々と、旅人の姿が見えるようである。
[作者]
伝記不明。宇多天皇の皇子敦実あつざね親王の雑色ぞうしきで、後、逢坂山に住み、博雅三位はくがのさんみに琵琶の秘曲をささげた、逢坂の関の明神というのは昔の蝉丸の跡であるなどと伝えられている。逢坂に庵を造って住んだことは、『後撰集』の詞書によってもほぼ確かであろう。醍醐天皇の第四皇子だという説もあるが、もとより信じられない。
歌は勅撰集に四首見えるだけである。
しかし『僻案抄』には、『古今集』巻19
「世の中は いづれかさして わがならむ ゆきとまるをぞ 宿と定むる」
「逢坂の 嵐の風は 寒けれど ゆくへ知らねば わびつつぞぬる」
「風の上に あかり定めぬ 塵の身は 行方もしらず なりぬべらなり」
の3首は、作者を現さず「読人しらず」としてあるが、実は蝉丸の歌であり、後撰集にはこの「これやこの」の歌に名を現したことがある。これが真なら、蝉丸が微賎の者であったことは疑いがないことになる。
百人一首評解」 著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ


これが名高い関所なのか

東国へ行くのも京へ帰るのも

知ってる人も知らない人も

出逢うところ

それがこの逢坂の関
去去来来去来頻

相逢相別乱粉粉

問何相識不相識

逢坂関多流落人

百人一首の世界」 著:千葉千鶴子 発行所:和泉書院 ヨリ