〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
わが庵は 都のたつみ  しかぞすむ  世をうぢ山と ひとはいふなり 
                                        (せんほう )
[口訳]
私の庵は、都の東南にあって、このように心しずかに住んでいる。然るに世間の人たちは、ここを、世を憂しとして住む宇治山だといって居るよ。
[鑑賞]
非常に特色のあるよみぶりである。「わが庵は都のたつみしかぞすむ」という上の句には、謡曲の「これは都の西、梅津の某とはわがことなり」などというのに似た、自己紹介的な、率直さ、無造作さ、剽軽さがあり、見方によれば、はなはだ素朴のようでもあるが、またはなはだ洗練された、洒落た言い方のようでも有る。又、「世をうぢ山と人はいふなり」には一層飄然とした、ふざけたような言い方がある。
「世をうぢ山」といった懸詞も、ここではわずらわしい技巧として感じられないで、ほほえましい戯れとして感じられる。
由来、隠遁者には、このような詠みぶりが多いのであるが、世を捨てた自由さが、詩心をゆがめることをせずに、このように楽々と詠ませているのであろうか。随って、「わが庵」はといっても、中世隠遁者の草庵のような暗さや重苦しさはなく、「しかぞすむ」といっても、草庵にこもって静かにゆく雲を見ているといった風な閑寂さはなくて「世をうぢ山など、そんな陰気臭いことを言うなよ」とふざける程の明るさがあるわけである。
清元の「喜撰」は花に踊り狂う風流僧であるが、本当に、あまり枯淡な草庵や深刻な顔をしている作者を想像してかかると「それだからわしは『しかぞすむ』と言ってるじゃないか」と、作者に笑われるかも知れないのである。
[作者]
伝記不明。『八代集抄』には「或説、喜撰橘諸兄の孫子奈良丸が孫周防守良植が子也」とあり、又、紀名虎の子ともいい『和歌深秘抄』には、清和天皇御出家の法号とするなど、その出自も不明である。またその名も『古今集』の流布本には「喜撰」、元永本・高野切には「基泉」、真名序の節切・了佐切には「撰喜」とあるなど、きわめて区々である。古今集序にいわゆる六歌仙の一人としてあげられているから、実在の人であったこと、弘仁ごろの人であったことはほぼ明らかであり宇治に隠棲したことも、この歌によってほぼ明らかである。
百人一首評解」 著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ

私の庵は京の東南

こんなに心を澄まして

穏やかに住んでいるのに

「世の中は憂し」といって

宇治山に逃れているのだと

人々は言っているようだ

百人一首の世界」 著:千葉千鶴子 発行所:和泉書院 ヨリ