〜 〜 『 寅 の 読 書 室 』 〜 〜
 
かささぎの わたせる橋に おく霜の  白きを見れば 夜ぞふけにける 
                                        (ちゅうごん家持やかもち)
[口訳]
宮中の御橋においている霜の、まっ白なのを見ると、もう夜も、だいぶ更けたことだなあ。
[鑑賞]
七夕の伝説は『万葉集』に多く歌われ、その後の歌にも詩にも多く詠まれているが、アジアの多くの伝説の中でも、これほど美しい伝説は外に多くあるまいと思われる。
夏の夜、ふり仰ぐあの星空の美しさの中に、この世ならぬ美しい星の恋を想像する時、われわれはアジアの詩心の美しさに、ふかく感謝したい心になる。
この歌、初句のゆるやかな韻律にしたがって、われわれの心は、その美しい伝説の世界から、しずかに、この世のうちの別世界である、優艶高雅な禁中に下がって来る。すると、夜の禁中の静けさ、もの深さが、夜気のようにわれわれの魂をなでる。やがて韻律が流れて下の句に移ると、たちまちそこには、峻烈眼をさすばかりの、きびしい白一色の霜の世界がひろげられ、やがて深夜の宮中のおごそかな静けさが、重く深く、存在の奥所へわれわれを誘ってゆく。
この、美しい夢のような世界から、急にはげしい官能の世界に移るところに、幻想的なまばゆい優艶美があり、それが新古今期の人に好まれて、集にとらわれたのであろうと思われる。
『拾穂抄』に『為家後撰抄』にある定家の説として「この歌、この世の橋をかよはしてよむか」という語を引いているが、定家も天上の橋と地上の橋との幻想的な交錯に、美を感じていたことが知られる。
[作者]
大伴家持は大伴旅人の子。はじめ父に従って大宰府に住み、天平10年(21才ごろ)頃から同18年まで、奈良で官吏生活を送り、同18年に越中守となって赴任し、そこに5ケ年居た。天平勝宝3年奈良に帰り、天平宝字2年には因幡守となって下り、3年間とどまった。後、中央、地方の諸官に歴任し宝字8年には恵美押勝の乱に関係ありと疑われて薩摩守に左遷された。
後、東宮大夫、中納言となり、延暦4年に死んだ。『公卿補任』によれば57才であるが、70才だとする説も有る。『万葉集』を最後的に完成したのは彼であるとせられ、同集の17・18・19・20の四巻は彼の家集のようなものである。万葉最後期を代表する歌人で、その歌はしだいに繊細さや感傷性を増し、優艶であると共に憂鬱な点ももっている。
春の野に 霞たなびき うら悲し この夕かげに 鶯なくも
わが宿やどの いささ群竹むらたけ 吹く風の 音のかそけ きこの夕べかも
うらうらに 照れるはる雲雀ひばり上り こころかなしも ひとりし思へば
百人一首評解」 著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ


鵲の広げた翼は

天の川に架かる橋

霜の置いた宮中の御階は

白くきらきら光る鵲橋

夜はすっかり更けたのだ
官階若鵲橋

秋霜満地飄

茫茫白一片

寒夜正迢迢

百人一首の世界」 著:千葉千鶴子 発行所:和泉書院 ヨリ