[口訳]
田子の浦に出て、はるかかなたを見わたすと、富士の高嶺に、まっ白な雪がふりつもっている。 |
[鑑賞]
同じく傑作と言われる絵画の前に立っても、ことばを極めてほめることの出来るものと、一言も言葉をさしはさむことが出来ず、ただ息をこらして感激していなければならないものとがある。
後者は、その絵画の神韻または清冽さというようなものが、相手をおさえて、ことばお以ってけがすことを許さないのである。
この赤人の富士の歌のごときは、その後者のようなものである。われわれはただ、その縹渺たる神韻にうたれるのみで、言葉を失った人間のように、おしだまらざるを得ないのである。
青い海の彼方、澄みきわまった秋冬の空に、はるかに、神のごとく懸かっている秀麗な富士を見たよき、歌聖といわれ、言霊の駆使に馴れきったこの歌人も、ほとんど言葉をなくしたかのように、ただ「富士の高嶺に雪は降りつつ」と、ただごとのような、何の奇もない言葉を投げ出すより外はなかった。
しかし、この神人一如のような境において、ただごとのように発した言葉こそ、そして全く人間的技巧をわすれた、この素朴きわまる言葉こそ、霊峰富士に接して発した人間の、もっとも神に近い、もっとも人間的臭さを離れた言葉として、永遠に魂の底から人を動かすのである。
「田子の浦にうち出でて見れば」という、おずおずと神の前に近づくような謙虚な言葉が、作者の敬虔な態度をおもわせて、この歌の清らかさを一層増していることも注意されてよい。
遠く旅をして来た万葉人の謙虚な姿が、小さく、素朴に、われわれの眼にうつるのだ。悠々たる歴史の上に、人はおこり人は亡び、治乱興廃はいくたび繰り返されても、富士に接したわが民族の、すなおな驚きと感嘆の心は、永久にこの赤人の心とじかに接して、少しの変わりも見られないであろう。
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[作者]
奈良朝の初期、すなわち元明・元正・聖武ごろの人。朝廷に仕えたが極めて低い官であったらしく、行幸に従った作が多いのえお見ると、歌人として朝廷に仕えたもののように思われる。
吉野・紀伊へは行幸に従って行ったのであるが、その他、駿河・下総・伊予・播磨等へも旅をしている。
自然の客観的描写にすぐれ、澄みきった観照、清冽な高い格調等においては『万葉集』中肩を並べる者がなく、その静寂な詩魂は、時に大自然の寂寥処にまで達しているかに思われる。
古来人麿と並び称せられ、『万葉集』中すでに「山柿」の称があり、古今集序にも「人麿は赤人が上に立たむこと難く、赤人は人麿が下に立たむこと難くなむありける」といっている。
『万葉集』には、長歌13首、短歌37首入って居り、勅撰集にも49首とられている。
その傑作としては、『万葉集」中次のようなものがあげられる。 |
若の浦に
潮みち来れば
潟を無み 葦辺をさして
鶴なきわたる |
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み吉野の
象山の際の木末には 幾許もさわぐ
鳥の声かも |
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ぬば玉の 夜の深けゆけば
久木生ふる 清き河原に
千鳥数鳴く |
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「百人一首評解」
著:石田吉貞 発行所:有精堂出版株式会社 ヨリ |
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