なつ のかぜ やま よりきたり さん びゃく の  まきわか うま  みみ ふかれけり
【作 者】 あき
【歌 意】
さわやかな初夏の風が山から吹きおろしてきて、その麓の広々とした牧場に群れている三百頭もの若馬が、いまいっせいにその耳を吹かれているところだ。
【語 釈】
○三百の牧の若馬==群れをなしている牧場の仔馬。 「牧の三百の若馬」 の意で、 「牧」 はまきば。牧場。
「三百の」 は 「牧」 ではなく 「若馬」 にかかる。 「三百」 は実数ではなく、概数で、数の多いことを示す表現。
○耳ふかれけり==若馬のぴんと立った耳が初夏のさわやかな風に吹かれているさま。 「けり」 は詠嘆の助動詞。
【鑑 賞】

第五歌集 『舞姫』 所収。明治三十八年作。歌集での題明はない。
初め 「中学世界」 に発表された作だが、少年雑誌にふさわしい一首。爽快な、清純な、いかにも調べの高く張った叙景歌でありながら、青春ゆえの脆さ、とでも言うべきものを言外に感じさせられる秀歌である。
緑に覆われている山の背、その木々の葉を光らせて吹きおろしてくる爽やかな初夏の風、広々とした牧場に群れをなしている、三才馬あたりだろうか、若馬の引き締まった体躯、まことに鮮やかな印象と季節感を伴う作。
「三百」 の音感が力強く、快く全体を引き締めている。 「耳ふかれけり」 が眼目だが、もちろん耳が風になびいているわけでなく、しなやかな体躯に比べぴんと張った耳が異様に大きい、それが目立って印象的に見えるのである。
こうした躍動する健康美をとらえた歌は晶子の作でも珍しいが、大きくロングに引いたアングルでアップしていくカメラアイの動きにも注目したい。

【補 説】
晶子の歌には本作のように数詞を巧みに使ったものが、
「人ふたり 無才の二字を 歌に笑みぬ 恋二万年 ながき短き」 ( 「みだれ髪」 )
「ああ野の路 君とわかれて 三十歩 また見ぬ顔に 似る秋の花」 ( 「恋衣」 )
など数多い。
また集中には、本作には及ばないものの、
「大夏の 近江の国や 三井寺を 湖へはこぶと 八月雲す」
「松かげの 藤ちる雨に 山越えて 夏花使 (ナツバナツカヒ) 野を馳つらむか」
「さざなみに ゆふだち雲の 山のぼる 影して暮れぬ みづうみの上」
などの、夏を詠んだ秀歌が多い。
【作者略歴】

明治十一 (1878) 年、大阪府生まれ。昭和十七 (1942) 年没。堺の菓子商鳳宗七の三女。堺女学校卒業。
明治三十三年 「明星」 に歌を発表し始め、翌年、処女歌集 『みだれ髪』 を刊行し、与謝野鉄幹と結婚する。
『みだれ髪』 は、青春の情熱を歌い上げ、浪漫主義運動の中心となる。
歌集には他に 『恋衣』 『百桜集』 など多数ある他、 『源氏物語』 を始めとする古典の現代語訳や評論、日露戦争の反戦詩 「君しにたまふこと勿れ」 でも知られている。

(近代文学研究者 波瀬 蘭)