いちはつの はな きいでて わが には とし ばかりの はる かんとす
【作 者】まさ おか
【歌 意】
いつのまにかいちはつの花が咲き出す頃となった。あす知れぬ病の床にある自分には、目で見るのは今年かぎりの、その最後の春がいま暮れてゆこうとしているのだ。
【語 釈】
○いちはつ==あやめ科の多年生草本で 「一八」 などとも書く。あやめ、かきつばたなどに似ており、晩秋初夏の水辺で薄紫色や白い花が咲く。
○我目には==他は知らず病気の重い私の目にとっては、の意。 「は」 は他との区別を指す係助詞。
○春行かん== 「ん」 は 「む」 の音便。推量と解されやすいが、春自身の意思と考え、自分としては止めたいけれども、春の方が暮れてゆこうとしているのだ、の気分に解したい。
【鑑 賞】

「佐保神の 別れかなしも 来ん春に ふたたび逢はん われならなくに」
とほぼ同想の作と言えるが、 「いちはつの花」 に惜春の情と、病者の感懐とを絡み合わせているところは、より具象的である。
また、 「今年ばかりの春」 という一句に作者の悲痛な感慨が滲んでいて、その嘆きが痛いほど胸を打ってくる。後に芥川や川端の言うことになる <末期の眼> そのものであり、死を意識した中で 「いちはつの花」 は一層その美しさを際立たせたはずであるが、実は誰の目が見る今年の 「いちはつの花」 も、来年見られるかもしれないそれとは異なる、一回限りのもののはずである。また 「今年なかり」 という言い方は口語的であり、 「春ゆかみとす」 という止め方は文語的であり、それがこの歌全体の落ちつきと、身につまされるような死病の悲しみを歌いあげた。
現実的につきつめた四句を受けて、古典的な五句が 結ぶところに、この歌の持つ不思議なほど清澄で感傷に溺れぬ哀調があり、字義通りの死を明らめた諦めが漂う。
子規の一生の代表作と言えよう。

【補 説】

明治三十四年五月四日、 『墨汁一滴』 に 「しひて筆をとりて」 と詞書をそえた十首中の一首。翌三十五年九月十六日未明、三十六歳の若さで永眠した偉大な子規は、この歌の諦めに反し、いま一度の春にはめぐり逢うことができたのであった。

【作者略歴】

本名昇。号は子規のほかに獺祭書屋 (ダツサイショオク) 主人・竹の里人などがある。
慶應三年、伊予温泉郡藤原新町 (現松山市玉町) に生まれた。
松山中学中退後上京。大学予備門 (旧一高) に入学、東大国文科に学んだが中退し、日本新聞社に入った。
記者として日清戦争に従軍したが、帰途喀血、以後病床生活を送る。
明治二十四年 「俳句分類」 の事業に着手し、やがて俳句の革新運動を進めたが、三十一年和歌の革新をめざし、 「歌よみに与ふる書」 を新聞 「日本」 に発表。
翌年根岸短歌会を結成し、病床にあってその運動を推し進めた。その客観写生による詠風は、のち 「アララギ」 派によって新たな発展をみた。
歌集に 『子規遺稿第一篇竹の里歌』 など数種がある。

(近代文学研究者 原 善)