ジャージーの あせ にじ むボール よこ きに  われ けぬけよ われおとこ
【作 者】 ゆき つな
【歌 意】
ラグビーの試合の最中、ジャージーの汗が滲みこんだラグビーボールを横抱きにして、さあ俺よ、殺到する敵の中をゴールまで駆け抜けよ。俺の内部に燃え熾っている俺の男よ。
【語 釈】
○ジャージー==細い毛糸・絹・化繊などを細かいメリヤス編みにした軽くて耐久性のある布地をいい、また、その生地で作られたトレーニングウェアを指す。特にここではラグビーの運動者をいう。
○吾の男よ==自分の内部に存在している 「男」 すなわち 「男っぽく荒々しい精神」 に呼び掛けている。
【鑑 賞】

第一歌集 『群黎』 (昭45) 所収の 「俺の子が欲しいなんていってたくせに!馬鹿野郎!」 中の一首。
すでに正岡子規が野球について短歌の世界で取り上げた例はあり、スポーツを歌う短歌がなかったわけではないものの、肉体相打つ激しいスポーツの中でも、とりわけ汗臭く男っぽいスポーツであるラグビーを、そのままに汗臭く男っぽく短歌の世界に取り入れたことに、本作の現代的な新しさがあることは間違いない。
それに伴う 「ジャージー」 「ボール」 という外来語のカタカナ表記の多用という特徴も目立つが、何よりも着目すべきなのは、スポーツ観戦者としてではなく、選手として詠んでいることであろう。
行為者としての行為の最中に行為する自分に向けての激しい呼びかけ。それだけでも自分を見る自分という分化があるのだが、さらにその自分の中から 「男」 の部分だけを分化させるという謂わば人籠的に重層する自我の在りようが興味深い。

【補 説】

「おまえを待つ朝なりし海の鮮明な風景の線風景の律」 など本作を収める 「俺の子が欲しいなんていってたくせに!馬鹿野郎!」 一連の失恋の歌の中に置いてみれば、この行為者は女の視線を意識していると考えられるが、思えば自我なる幻想は他者を鏡にしてこそ成り立つのであって、そう考えた時、右に述べた自我の在りようの背景が分かり易くなろう。

【作者略歴】

昭和十三 (1938) 年十月八日、東京都生まれ。
佐佐木治綱、由幾の長男。治綱は、佐佐木信綱の三男。
早稲田大学率。
河出書房の編集者、跡見女子大学教授を経て、早稲田大学教授。 「心の花」 編集に従事。
太ぶととした生彩ある男歌の発想で、人間の復権を求め、現実のダイナミズムに挑戦する作風。
歌集に本作を収めた 「群黎」 (昭45) の他に、『直立せよ一行の詩』 (昭47) 、 『夏の鏡』 (昭51) 、 『火を運ぶ』 (昭54) 、 『反歌』 (平1) などがあり、評論集に 『万葉へ』 『極北の声』 『詩の此岸』 などがある。
大学在学中の昭和三十七年に小野梓賞を受賞。
舞踏用の詩劇 「なるしす」 で昭和三十九年度芸術祭奨励賞、第一歌集 『群黎』 で現代歌人協会賞、第六歌集 「金色の獅子」 で詩歌文学館賞、第七歌集 「瀧の時間」 で釈迢空賞を受賞している。

(近代文学研究者 波瀬 蘭)