うすらなる くう なか に みの りゐる   どうおも さ はかりがたしも
【作 者】くず はら たえ
【歌 意】
秋の透明で希薄な空気の中で実っている、垂れ下がる葡萄の重さは、どうしても推量しがたいことだ。
【語 釈】
○うすらなる==本来の古語としては形容動詞 「うすらかなり」 があり、ものの厚みが薄そうだ、うっすらとしている、の意。その連体形 「うすらかなる」 の省略形。
○はかりがたしも== 「量る」 は、量・重さなどを推定する、 「難し」 は難しい、の意。 「も」 は 「なあ」 「ことよ」 といった詠嘆の意の終助詞。
【鑑 賞】

『葡萄木立』 (昭38) 所収、 「葡萄木立・葡萄倉」 の中の一首で、昭和三十五年の作。
所収歌集の後記で、作者は、葡萄の大きさや重さは 「ふと人間の宿命の、また忍苦の重さとも思われるが、ときを選ばず葡萄の大きな玉がみえるとき、私のはまた別の思ひがある。それは生存そのものの中に縷々含まれる妖、つまり無気味なものとの対面を意味する」 と述べている。
古代以来、葡萄が 「人間の苦痛や歓喜と共にあった」 という認識がここで踏まえられている。カトリックである作者ならではの発想だが、エデンの園の智慧の樹として林檎に対して生命の樹として葡萄が想定されていることを思えば、作者の認識に同調することが出来るだろう。
「葡萄の重さ はかりがたしも」 という感慨は、単に果実が大きく実ったことを賛美してのものではなく、かくのごとく実らせてきた人間の苦しみと喜びを思い、それを重ねながら実景としての葡萄を描出している。 「うすらなる空気」 と 「葡萄の重さ」 との対照が利いていることにも着目したい。そこに葡萄の姿を踏まえて、言い知れぬ人間の哀しみをみつめているのだ。
もちろん以上のように深く苦い認識を読まなくとも、 「はかりがたし」 という言葉の中に自分の、そして人間の無力さへの詠嘆を充分読み取ることは出来るだろう。

【補 説】

一連の中にある 「原不安というはなになる赤色の葡萄液充つるタンクのたぐひか」 に対し篠弘は 「赤いワインうぃつくり出すタンクに、生きた人間に対する怖れを見出している。葡萄倉のタンクを見ていると、人間の生きている根源的な不安におののくというのである。カトリックの教徒である作者は、絶えず原罪感に対する対決をにおわせている。」 と読んでいる。

【作者略歴】

明治四十 (1907) 年二月五日、東京生まれ。昭和六十 (1985) 年九月二日七十八歳で没。
大正十五 (1926) 年府立第一高等女学校の高等科国文科を卒業。
昭和十四 (1935) 年に 「潮音」 に入会、太田水穂・四賀光子に師事。同二十四年に女人短歌会創設に参加した。
幻想性に富んだ特異な歌風は、現代短歌の一つの典型となる。
歌集に 『橙黄』 (昭25) 、 『飛行』 (昭29) 、 『原牛』 (昭34) 、 『葡萄木立』 (昭38) 、 『朱霊』 (昭45) 、 『縄文』 (昭48) 、 『薔薇窓』 (昭48) 、 『鷹の井戸』 (昭52) がある。

(近代文学研究者 波瀬 蘭)