しゅう ぶん の でん しゃ にて ゆか にさす  ひかり とともに はこ ばれて
【作 者】 とう ろう
【歌 意】
秋分の日、電車の窓ガラスを透して床に射しているおだやかな光も、ともに運ばれて行く。
【語 釈】
○秋分の日== 「秋分」 は二十四気の一つ。太陽が秋分点に達した時で、秋の彼岸の中日。九月二十三日頃。昼夜の長さがほぼ等しい。
【鑑 賞】

歌集 「帰潮」 の 「[」 の章の三首中の一首で、昭和二十五 (1950) 年の作。
作者は 「自註」 で、 「光は何にふれても汚れないとうはれているが、この時私は秋の光を新しい角度から見ることができた」 と述べている。
どこが 「新しい角度」 なのか。秋分の日、作者は電車に乗ってどこかへ出かけている。 「秋分の日の電車にて」 というまるで詞書のような歌いだしだが、これは単に 「秋の日の電車の中で」 でない以上、 「秋分の日」 には重い意味があるはずである。
秋の彼岸の中日、作者は墓参りに向かっているのかもしれない。秋の穏やかな陽射しが電車の窓ガラスを透して床に射している。これが体や座席でないことも日の高さを表し、光の穏やかさ暖かさを示すことになる。
「光も」 の 「も」 は、車内の吊り革や手すりといった物や乗客たちとも読めるが、やはり自分と共に、の意が強いだろう。
結句の 「運ばれて行く」 という受動態の表現は、 「運んでいく」 主体としての大いなるものの存在を感じさせる。
彼岸に死者杜の対話に向かう者、そこに温かい光ガ同行し、それを導くものがいる。 「対象が生きた啓示の輝ける瞬間として把握された時に象徴が成り立つ」 ( 『純粋短歌論』 ) という作者のことばがあるが、まさしく 「輝ける瞬間」 として捉えた 「光」 の 「象徴」 はそのようんこそ読むべきだろう。

【補 説】

本作が収められた 『帰潮』 の歌の特徴について、作者は、 『帰潮』 が読売文学賞を受賞した時に、
「私の 『帰潮』 という歌集の歌というものは、短歌の純粋な根本要求である根に響く感じというものを日常生活の中から捕らえ、それをさながら表現しようと努力したもの」
だ、と語っている。
本作と、それに続く
「秋分の日は昏れがたの空たかき曇となりぬ庭のうへ青く」
という歌からも、 「根に響く感じ」 は十分感じられるはずである。

【作者略歴】

明治四十二 (1909) 年十一月十三日、宮城県生まれ、昭和六十二 (1987) 年八月八日、七十六歳で没。
大正十五 (1926) 年 「アララギ」 入会。昭和二 (1927) 年より斎藤茂吉に師事する。
昭和二十年に 「歩道」 を創刊し主宰する。
主な歌集に 『歩道』 、 『帰潮』 、 『地表』 、 『群丘』 、 『冬木』 、 『形影』 、 『開冬』 、 『天眼』 、 『星宿』 などがあり、その他、 『短歌入門ノート』 、 『斎藤茂吉言行』 、 『佐藤佐太郎書画集』 などの著書もある。
昭和五十八年、日本芸術院会員。

(近代文学研究者 紫安 晶)