とう めい の  らん のごとく がく しょう が  その ゆる せい ねん
【作 者】みず はら えん
【歌 意】
透明な、僧侶たちが住んで修業する清浄閑静な伽藍。そのように清浄に荘厳に、楽曲の大きな一区切りが目に見える青年を、私は思い慕っている。
【語 釈】
○伽藍==僧侶たちが住んで修業する清浄閑静な所。後に、寺院の建築物の称。
○楽章==ソナタ・交響曲・協奏曲などの楽曲の大きな一区切り。
○恋ふ==ハ行上二段動詞 「恋ふ」 の終止形。異性を思い慕うこと。
【鑑 賞】

『びあんか』 (平元) に収録の 「透明伽藍」 の中の一首。
「びあんか」 は、BIANCA (イタリア語) で 「白い女」 の意味。
「楽章」 は耳で聴く物であり、目で見るものではない。それが、目に見える幻想の世界にこの 「青年」 はいるのだが、こうした聴覚を視覚に (あるいは視覚を聴覚になどと) シフトチェンジするような在り方を 「共感覺」 と言い、日常生活でも決して起こり得ないものではないが、極めて非日常的な特殊な在り方であるが、さらにそれがどのような見え方をするかという部分でも、荘厳な視覚的に圧倒する存在であるはずの 「伽藍」 が 「透明」 であるという。反義的な、形容矛盾的な有り得ない存在として 「身ゆる」 というのだ。
そうしてそうした 「共感覚」 という 「体性感覚を基本とする諸感覚 (特殊感覚) の統合によって、私たち一人一人は他の人間や自然と共感し、一体化することができる」 (中村雄二郎 『共通感覚論』 ) のだが、その青年を思い慕うのは、自分もその志向を持っているからであり、同じくその青年と一体化を願っているからである。
さらにはそうしたある種非現実的な在りようが読者にリアリティを持って迫ってくるのは、読者もまた個の世界に一体化を促されているということなのである。

【補 説】
そうした一体化の在り方と繋がるものとして、高野公彦は 「解説」 ( 『びあんか』 ) で、
「実像と等身大の虚像が反世界にゐる、すなはち異常に自分と同じもう一人の自分がゐる。といふ思いが、水原紫苑の根本的な詩的思考なのではないだろうか。その、もう一人の自分を探して、彼女の魂は遊行するのだ。」
と、書いている。
【作者略歴】

昭和三十四 (1959) 年、神奈川県生まれ。
高校時代から作歌を始めたが、一時中断。昭和六十一年、早稲田大学文学部仏文学専攻修士課程修了。再び作歌を始め、 「中部短歌」 に入会。春日井建に師事する。
六十三年、萩原祐幸らと同人誌 「ヴォルテ」 に参加。平成元年五月、第一歌集 『びあんか』 刊行。二年、 『びあんか』 により第三十四回現代歌人協会賞受賞。
歌集に 『うたうら』 『客人』 『くわんおん』 『空ぞ忘れぬ』 『いろせ』 があり、随筆集に 『うたものがたり』 がある。

(近代文学研究者 紫安 晶)