すぎ やま に あさ しそめ せみこえ   かなしみのかさ を  づるなり
【作 者】まえ
【歌 意】
朝日が杉山に差し込んでくると、いっせいに蝉が鳴き始める。積りつもった悲しみの総量を表すかのように、はげしく鳴き続けている。
【語 釈】
○差しそめ==光が差し (射し) 始める。
○かなしみ==山中に独り暮らすことでの悲しみ。
○量==かさ。物の多少を表す言葉だが、普通は 「嵩」 という字がが当る。
【鑑 賞】

『霊異記』 (昭47・3) 所収の 「狼」 中の一首で、昭和四十年の作。
吉野の山中で、自然と共に生きる作者の孤絶の思いが、この一首の主題となっている。朝、杉山に曙光が差し込んでくると共に、どこにこれだけの蝉がひそんでいたかと思うほどに、激しい蝉の合唱が始まる。
「差しそめ」 (差し始め) ると 「湧き出づる」 という呼応に、まさに瞬時の反射のように蝉が鳴き出した様が示されている。
山中という宇宙に外側から差し込む光と、内側から湧き出る音という視覚と聴覚の交響に妙味がある。
山中に孤立して生きてこざるを獲なかった、個の悲しみの限りない深さを表すように、積もった悲しみを蝉が代弁してくれているというのだが、この 「かなしみの量」 には、作者の孤独感の反映が見られる。
孤独感には普通の詩情では静寂が似合うところを喧騒で表すところや、孤独な個の哀しみが蝉の群れによって示される所にも、ある種反義的な結合が見られることにも注目したい。

【補 説】
歌集には、蝉を歌った佳作が多く収録されており、ある時は蝉が、自然と共に生きる作者の生活の生の喜びを語り、また逆に生くる苦しみを表すなど、自らの心象を如実に反映するものとなっている。
一人山中に生きる者にとって、蝉は個の存在感を限りなく問うものとして、繰り返しそのモチーフとなり続けている。
これは一見作者独自の古代信仰的なものにも見えようが、現代の山田詠美が 「蝉」 ( 『晩年の子供』 ) の中で少女の孤独な苛立ちを蝉の喧騒と重ねて描いていることや、村上春樹が処女作 『風の歌を聴け』 でタイトル通りの 「風」 と繋がる 「蝉」 の声を聴くことの大切さを 「鼠」 という登場人物に語らせていること、などを隣に置くとなかなかに興味深いはずである。
【作者略歴】

大正十五 (1926) 年一月一日生まれ。奈良県吉野郡出身。同志社大学卒業。
詩人として出発し、昭和二十七年 『誌豹」 を創刊。安騎野志郎の筆名で詩集 『宇宙駅』 を刊行している。
昭和三十年から短歌を作詩し、前川佐美雄に師事した。
吉野の山中で林業を営みながら、自然に対する畏怖、古代信仰の生命を捉えた。
極めて特異な歌風を持っている。
歌集に 『子午線の繭』 (昭39) 『霊異記』 (昭47) 『縄文紀』 (昭52) などがあり、評論集に 『山河慟哭』、エッセイ集に 『存在の秋』 などがある。

(近代文学研究者 紫安 晶)