しろ がみとど いて  あ すはる となる うすいがらすも みが いて ま たう
【作 者】 斎藤さいとう ふみ
【歌 意】
真っ白な手紙が届いて明日はきっと春めいた気分になるだろう。はやる気持ちを押えるためにも、窓に嵌ったうすいガラスを磨いてその時を待つことにしよう。
【語 釈】
○うすいがらす==窓に嵌ったガラスのこと。
【鑑 賞】
斎藤史の第一歌集 『魚歌』 所収。その巻頭の一首である。
来るべき何かを待っている時間というのはことさら長く感じられるものである。そして、期待と不安の入り混じる中で気分が昂揚して何かをせずにはいられない、あるいは何をしても集中することが出来ない、といった事態は誰しも経験することであろう。
この一首はそうした訪れ来る何か (誰か) を待つ者の微細に揺れ動く心境を巧みに表現してみせた歌である。
ところで、 「白い手紙」 とはいったい誰から差し出されたものなのか。あるいはそれは何かの喩であるのか。少なくとも言えることは、この歌で 「白い手紙」 とは、春そのものや春めいた気分を運んでやってくるものだということである。
さて、ここで少し視点を変えてこの歌について考えてみよう。
こも一首を収める歌集の名は 『魚歌』 である。暗く冷たい水底を泳ぎ回る魚たちの歌。待ち焦がれた春の訪れを言祝ぐ声なき歌。それはさながら静謐な黙劇、無言歌である。水面を覆う氷を春風が融かすというのは和歌の伝統的な発想であるが、ここで仮にそれを踏まえるならば、 「うすいがらす」 とは春が近づくにつれて薄くなってゆく水面の氷とも解釈出切るのではないだろうか。
そもそも 「うすいがらす」 をガカス窓とばかり限定して捉える必要はないのであって、例えば、親しい友人や恋人の来訪を前にして、コップやグラスを磨いている情景などを仮想することも許されよう。
【補 説】
このほかに斎藤史の作品としては、
「指先に セント・エルモの 火をともし 霧ふかき日を 人に交れり」、
「野に捨てた 黒い手袋も 起きあがり 指指に黄花 咲かせだす」、
「死の側より 照明せばことにかがやきて ひたくれないの生ならずやも」
などがある。
【作者略歴】

明治四十二年 (1905) 生まれ、平成十四年 (2002) 没。東京都出身。父は佐佐木信綱門下の斎藤瀏。
大正十五年、若山牧水と出会う。昭和六年、前川佐美雄・石川信夫らと 「短歌作品」 (のちに 「日本歌人」 ) を創刊。
昭和十五年、 『新風十人』 に参加、第一歌集 『魚歌』 を刊行する。
昭和三十七年、「原型」 を創刊。
歌集は 『魚歌』 、 『うたのゆくへ』 、『ひたくれなゐ』 、『秋天瑠璃』 、『斎藤史全歌集』 ほか。

(学習院大学大学院生 田中 仁)