【作 者】伊
藤
左
千
夫
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【歌 意】 |
牛飼いのような者が歌をよむ時に、世の中の新しい歌は大いに勢い盛んになることであるよ。 |
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【語 釈】 |
○牛飼い==牛乳搾取業を営んでいた左千夫自身のこと。
左千夫は明治十八年に上京、東京や横浜の牧場を転々とした後、明治二十二年に独立して牛乳搾取業 「乳牛改良社」
を開業した。
○新しき歌== 「あらたしき」 と万葉調に訓じる。
上代に見える 「あたらし」 の用例はいずれも惜しいの意であり、新しい意には 「あらたし」 の語が用いられた。
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【鑑 賞】 |
詠出年次は不明であるが、左千夫没後、歌集が編纂された折に斉藤茂吉によって巻頭の明治三十三年はじめに置かれた。
土屋文明は、明治三十年七月二十一日付、桐の舎桂子の左千夫宛書簡に見える 「先会の御歌牛飼」 が、この一首もしくはその原型を指すものかもしれないとする。
しかしながら、原型はともかくも当該歌については、短歌革新の思想と運動に共鳴した詠みぶりから、明治三十三年一月二日に、これまで論争を続けてきた子規を初めて訪問、年少の子規に師事し崇拝の念を強めていった時期の作と考えたい。
新しい和歌の担い手は自分たち市井の労働者であるという強い気概の込められた一首であり、左千夫の代表作として親しまれてきた。
明治三十三年四月に、子規が左千夫に贈った 「悟不悟の歌」 と題する六首の中の一首
「茶博士を いやしき人と 牛飼をたとふとき 業と知る時花咲く」
の詠は、左千夫の 「牛飼」 の歌を享けての激励と憶しい。
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【補 説】 |
『野菊の墓』 の表紙をも手がけた友人中村不折の 「牛飼の左千夫万葉集を 繙くの圖」 には、牛を追うための竹棒を片手に、草の上で
『万葉集』 を読み耽る裸足の左千夫の姿が描かれている。
「牛飼」 という実業と 『万葉集』 という古典が並び立つところに左千夫の本領は存在するのであった。
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【作者紹介】 |
元治元年 (1864) 生まれ、大正二年 (1913) 没、享年五十歳。
上総国武射郡殿台村 (現在の千葉県山武市殿台) の農家に生まれる。
伊藤並根から茶の湯と和歌の手ほどきを受けた。初期の作品は桂園調であったが、 『万葉集』 を学び、独自の歌論を展開するようになる。
子規に論破された後、その門人となり、子規没後も根岸短歌会の機関誌 『馬酔木』 を創刊。
森鴎外の観潮楼歌会に出席し、他派の歌人と交流の機会を得た。
明治四十二年には 『アララギ』 を創刊し、万葉調の写実主義を深化させた。
島木赤彦・斉藤茂吉・小泉千樫・土屋文明など多くの後進を育て、歌とは心の叫びであるとする 「叫びの説」 を唱えた。
小説 『野菊の墓』 は、夏目漱石に激賞されたことでも知られる。
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(鶴見大学非常勤講師 山本
令子) |