東海とうかい の  こ じまいそ の 白砂しらすな に  われ な きぬれて かに とたはむる
【作 者】石川いしかわ 啄木たくぼく
【歌 意】
東の海の上にある小さな島・日本国の、片隅にある磯辺の白砂の上で、私は涙に濡れながら蟹と戯れている。
【語 釈】

○東海==東の海上にある国の意から、日本国の異称。
○泣きぬれ==泣いた涙で頬が濡れること。
○たわむる==戯れる。

【鑑 賞】

第一歌集であり、生前に唯一出版された 『一握の砂』 の巻頭歌。
「東海」 「小島」 「磯」 「白砂」 と映画のクローズアップの手法のように焦点が徐々に絞られていき、最後には何かに傷ついた 「我」 が大写しになるという映像的な歌。
大きな地球の中の小さな国日本の、小さな浜辺で、白い砂に囲まれて、横にしか歩く事の出来ない不器用な印象を与える小さな蟹と戯れる事で、小さな自分を認識し、自己を徹底的に寂しいものとして捉えると共に、その自己に対して憐憫の眼差しを注いでいる。
「頬につたふ なみだのごわず 一握の 砂を示しし 人を忘れず」
    ( 『一握の砂』 の歌集名はこの歌による)
「いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指の あいだより落つ」。

【補 説】

啄木は 『一握の砂』 で短歌を三行書きにする手法を編み出した。
従来の、歌を一行に書くということが自分の表現にそぐわなくなったとし、歌には一首一首異なった調子があるため、一首一首別な分け方で何行かに書くのだという。
そこには、単に表記の問題に留まらず、伝統的な短歌に対する抵抗と革新があり、文語調から口語調のの発想への転換があると言われている。
『悲しき玩具』 では、感嘆符を用いたり一字下げた字配りをするなど、さらに自由で清新な表記が試みられている。

【作者略歴】

明治十九年生まれ、同四十五年 (1912) 没。享年二十七歳。
岩手県南岩手郡日戸村の曹洞宗常光寺住職石川一禎の長男。
盛岡中学校在学中から先輩の金田一京介の勧めで雑誌 「明星」 を愛読、与謝野晶子の 『みだれ髪』 の影響を受け、文学への道を進み始める。
同三十五年、中学を退学し、文学で身を立てるという決意のもと、上京するが失敗。 三十七年堀合節子と結婚。
四十年に北海道に渡るが、流浪の時代が訪れる。北海道では文学的には成果を得られたが、実生活では次々と転職し、土地を転々とした。
四十一年春には、再び単身東京に出て流行作家を目指すが文壇では認められなかった。
四十二年東京朝日新聞社の校正係となった啄木は、家族を呼び寄せ、苦しい実生活を詠んだ三行書きの短歌で歌壇に新風を吹き込んだ。
歌集に 『一握の砂』、 『悲しき玩具』。詩集に 『呼子と口笛』。評論として 『時代閉塞の現状』 などがある。

(日本女子大学大学院研究生 田代 一葉)