劫初ごう しょ より つくりいとなむ 殿堂でんどう に  われも こ がね の くぎ ひと  つ
【作 者】 あき
【歌 意】
この世の始まりと時を同じくして竣工され、今も尚作り続けられている芸術や美という名の殿堂に、私も小さくはあるが金色に輝く釘を一つ打ち込むのである。
【語 釈】

○劫初==仏教用語で、この世の初め。 「劫」 は極めて長い時間の事。
○いとなむ==あれこれと整えて怠ることなく物事につとめること。
○殿堂==立派で広大な建物。

【鑑 賞】

晶子の代表歌の一つ。大正十八年九月刊行の第十八歌集 『草の夢』 の巻頭歌。 初出は同年一月。
続く二首目は
「王宮の 氈を踏むより 身の派手に わが思はるる 落椿かな」
人類が長い時間を掛けて生み出し続けている芸術を、殿堂建築に例えた歌。
『草の夢』 は、旅の歌が殆どを占める歌集であり、巻頭の二首は集全体から見ると趣を異にしているが、四十代半ばを迎えた晶子の、芸術家としての自負と確信がささやかにではあるが、しかしはっきりと表明されている歌であるといえよう。
なお、上の句の表現に、 『旧約聖書』 のソロモンの大殿堂の影響を指摘する解釈もある。

【補 説】

晶子は、第一歌集 『みだれ髪』 の歌などから、恋の歌人という面が強調されがちであるが、その人生は、芸術に打ち込んだものであったといえる。
その中に、女学校卒業後から、独学で古典を勉強していた成果の一つ、 『源氏物語』 全巻現代語訳がある。江戸時代前期に出された北村李吟の 『湖月抄』 より他に参考書のないい中、三十歳を過ぎた頃、(明治末から大正初期) より始めて 『新新訳源氏物語』 全八巻の刊行が終了したのは昭和四十年である。
その間には、十年かけて現代語訳し、宇治十帖の前まで終えた原稿を関東大震災で焼失するという不幸があった。非常に落胆するが、昭和十年の夫・寛の死をきっかけとして再開し、前人未踏の偉業を果たした。
他にも五男六女を養育しながら、欧州での外遊や、小説・評論・随想の執筆をするなど、短歌以外にも様々な方面での芸術活動がある。

【作者略歴】

明治十年 (1878) 生まれ、昭和十七年 (1942) 没、享年六十五歳。
父は大阪府堺市の菓子商鳳宗七。堺女学校卒業後、明治三十三年東京新詩社の創立と共に入会。雑誌 『明星』 に熱心に投稿。家を捨てて与謝野鉄幹の元に走り、同三十四年に結婚。同年第一歌集 『みだれ髪』 を出版し、大反響をよんだ。
二十代の終わりですでに円熟した歌を詠んだ晶子は、明星派の中心歌人として活躍し、多数の歌集を残した。
日露戦争に反対した詩 「君死にたまふこと勿れ」 や、母性保護について平塚らいてふと論争するなど、社会に対して鋭い眼差しを持っていた。

(日本女子大学大学院研究生 田代 一葉)