こうとう の ちまたにゆきて かへらざる ひと をまことの われとおも ふや 
【作 者】よし いさむ
【歌 意】
歓楽街へ出かけて、酒と女に溺れて帰らない人を、私の真実の姿だと人は思っているのだろうか。
【語 釈】

○紅燈のちまた==歓楽街。花柳街。

【鑑 賞】

『昨日まで』 所収。
この歌集名は、青春は昨日までという意味がこめられている。
この歌は、まさにその典型というべきものであろう。ただ放蕩に耽っているだけのように見えるかもしれないが、そんなことはないのであるという、そのニュアンスをもう少し詳しく分析してみよう。
若い時は心に鬱屈を抱えていて、そのやるせなさを女色や酒の酔いによって晴らそうとしがちなものだ。また、女・酒そのものが持つ快楽には、簡単には脱却しがたい魔力がある。
この歌でも、一時はそんな陥穽にはまってしまったものの、そういう自己を客観的に見据え、悔悟しつつ、そこから何とか抜け出そうとする意思が仄見える。
たんなる負け惜しみというよりは、もう少し強い感情、たとえば大人として自立しようとする気概のようなものも感じ取っていいだろう。
しかし、一方で歓楽街へ行く自己も戯画化されていて、そのあたりにユーモラスな一面も潜んでいる。その点も、この歌が良く出来ている理由である。
また、 「紅燈のちまた」 というはじまりの印象的なことも忘れがたい。

【補 説】

明治四十四、五 (1911・12) 年頃、作者が二十五、六歳の時に詠まれた、 「紅燈」 と題する一連の中の一首である。
「紅燈」 に足を向けさせた理由については、この連作に 、
「夏ゆきぬ 目にかなしくも 残れるは 君が締めたる 麻の葉の帯」
「夏といへば 忘れがたかり 夢よりも さらにはかなき 恋にはあれど」
というような歌々が含まれている事から、かなわぬ恋の懊悩であったかとも想像されている。ただし、必ずしもそう読まなくてはいけないということはない。
若い時は若い時で、その年齢特有の煩悶が誰しもあるものだ。それとの葛藤はさまざまな形を取って現れる。そんな広く一般的な青春期のありかたと、それへの訣別を読み取ってよい。

【作者略歴】

明治十九年生まれ、昭和三十五年 (1960) 没、享年七十三歳。
伯爵家の次男として誕生。早稲田大学中退。
「明星」 に加わり、のち 「スバル」 を石河啄木らと創刊し、耽美的な作品を発表した。
歌集 『祗園歌集』 『人間経』 の他、戯曲や小説もある。

(学習院大学教授 鈴木 健一)