【作 者】斎
藤
茂
吉
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【歌 意】 |
最上川では逆白波がたつほどに激しく吹雪く夕となったことだなあ。 |
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【語 釈】 |
○最上川==山形県の吾妻連峰一帯を水源とし、庄内平野を貫流し、日本海に注ぐ川。日本三急流の一つに数えられる。
○逆白波==茂吉の造語。鳥海山おろしの強い北風によって最上川に進むかのようにたつ白波のこと。
○なりにけるかも==なったことだなあ。万葉調の結句である。強い詠嘆をあらわす。
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【鑑 賞】 |
『白き山』 所収。連作 『逆白波』 の中の一首である。
昭和二十一年から翌二十二年まで、茂吉は芭蕉が宿泊した地として知られる山形県大石田町の二藤部平右衛門家の離れに滞在した。
夫人との別居後住まっていた青山脳病院を焼け出され、疎開した故郷金瓶村の妹の婚家の土蔵は明渡しを求められ、門人達の厚意にすがっての移居であった。
この時期の茂吉の作歌には、敗戦体験、戦争犯罪者として追及されることへの懼れ、家族と離れて暮らす孤独、老いや病の苦しみなどがないまぜになった心境が投影されている。
『白き山』 には、金瓶村時代の蔵王山詠に替わり、様々な季節・時間帯・天候下の最上川の歌が収められている。中でも厳寒の景を詠んだこの一首は茂吉の代表作に数えられる。
眼目は、 「逆白波」 の用語と結句の万葉調とにあるが、初六字を除いてすべて平仮名という書き表し方にも、最上川に逆立つ白波の情景を際立たせる効果が認められる。
同じ連作中に 「かりがねも 既にわたらず あまの原 かぎりも知らに 雪ふりみだる」 の一首があるが、激しく吹き乱れる雪の中、下流から吹き上げる強い北風にあおられて、白波が返り立つ。
雄大な最上川の景色はまた、不安と寂寥の内に独り暮らす茂吉の心象風景でもあり、単なる自然詠の域を越えている。
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【補 説】 |
次男北壮夫の 『茂吉晩年』 によれば、昭和二十一年二月十八日の茂吉の日記に 「午後四人ニテ散歩、大吹雪トナリ、橋上行キガタイ様子トナッタ、最上川逆流」
とある、この日の体験から生まれた歌という。 「四人」 の一人、板垣家子夫 『斎藤茂吉随行記』 に詳しい。
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【作者略歴】 |
明治十五年 (1822) 生まれ、昭和二十八年 (1853) 没、享年七十歳。
山形県金瓶村の富裕な農家の三男として生まれる。
東大医科を卒業後、精神科医となる。正岡子規の 『竹の里歌』 を読んで作歌を志し、伊藤左千夫に入門。
『アララギ』 の創刊に加わり、編集を担当した。子規以来の写生論を発展深化させ、 「実相観入」 (心眼をもって対象を正しく把握すること)
を唱えた。
歌集に 『赤光』 『あらたま』 『ともしび』 『白き山』、 評論に 『柿本人麿』 などがある。
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(慶応義塾湘南藤沢中・高等部 山本 令子) |