をみなにて また ぞ  まれまし  はな もなつかし つき もなつかし
【作 者】 山川やまかわ
【歌 意】
来世もまた必ず女として生まれましょう。
ああ、こんなにも花に寄り添って離れ難い。(女性の象徴である) 月のもこれほど心が引かれるのだから・・・・。
【語 釈】
○来む世==来世。次に生を受けるとき。
○なつかし==近寄っていたい。心が引かれる。手放したくない。
【鑑 賞】
初出は明治三十九年 「明星」 一月号。 「都に病みてよめる」 という詞書がある。
東京で肝臓を病み、ついで結核の徴が見られたので京都の姉の嫁ぎ先に行って療養。もうすぐこの世を去るという想いが通奏低音としてある。

二十二歳で鉄幹と出会い、その年に同郷の山川駐七郎と結婚。二年後に死別。
また二年後に日本女子大学に入学。翌年、与謝野晶子・増田雅子と共に詩歌集 「恋衣」 を刊行。

登美子の二十代は 「明星」 の人々と共にあった。
深い思慕を寄せる鉄幹の傍に晶子の華やかな存在を眺め続ける心境はどのようなものであったか、測り知れない。
謙虚と従順を美徳としながら、一方で 「をみな心」 の淵を深めていったのであろう。
「妹の 憂髪かざる 百合を見よ 風にやつれし 露にやつれし」 は、晶子に宛てた歌である。
「明星」 の女性歌人はそれぞれに源氏名とも呼ぶべき愛称を持ち、登美子は 「白百合」 晶子は 「白萩」 雅子は 「白梅」 であった。
鉄幹を中心に女性固有の力が発揮された、いわばフェミニズム歌集が 「恋衣」 ではないか。 『恋衣』 は学校の忌むところとなり、登美子は停学処分となっている。

夫と同じ病気 (結核) に臥すようになってから、内省と自己追求の色がさらに濃くなり、感覚的な鋭さも増してくる。
「しずかなる 病の床に いつはらぬ 我なるものを 神と知るかな」
「矢のごとく 地獄に落つる 躓きの 石とも知らず 拾ひ見しかな」
などは、短い生涯をもう一人の自分が総括しているような感じを受ける。
一方、掲出歌は、をみなとしての芯の部分がほろりと表出されたものといえよう。
二十代前半の歌
「それとなく 紅き花みな 友にゆづり そむきて泣きて 忘れ草摘む」
に、どことなく通じるものがある。
花を鉄幹に月を晶子に当てることは、深読みに過ぎるだろうか。
【補 説】

人よりも家が優先する結婚を受け入れた登美子は、運命の選択において、家を捨てて自我を貫いた晶子とは決定的に異なる。
晶子を 「和泉式部」 に、登美子を 「式子内親王」 にたとえることもあり、鉄幹との関わりの中で興味深い。

【作者略歴】

明治十二年生まれ、明治四十二年 (1909) 年没、享年三十一歳。
若狭酒井家御目付役・貞蔵の四女。
大阪梅花女学校 (ミッションスクール) に学ぶ。
明治三十三年、新詩社に加入。
「明星」 には第二号より作品を発表。

(横浜市立東高等学校教諭 新井 さち子)